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「作法を嗜む」という心がけ

2010年12月14日 | 読書
 『明治人の作法~躾けと嗜みの教科書』(横山験也 文春新書)

 横山先生の講演を拝聴した時にも感じたが、つくづく礼儀や作法が定着していないことに我ながら呆れることがある。世代的にそうなのかもしれないが、親と同居もしていないし、冠婚葬祭の時などは本当にあたふたとしている現実がある。

 この本の「進物」という章では祝儀袋のことが出てくるが、そのいわれなど実に興味深く納得できるので、すうっと身体に入ってくるようだし、もう少しこうした本に早く出会っていれば、礼儀も身についていたかもしれないと思ってしまう。

 さて明治と言えば、例のドラマ「坂の上の雲」だが、昨年の第一シリーズで一番印象深かったのは、秋山兄弟の食事シーンだった。ご飯茶碗が一つしかなく、兄が食べてからその茶碗で弟が食べるという件は驚きだった。
 経済的な理由があったにしろ、そこに流れる精神の有様は、うわあ明治って凄いとダイレクトに伝わってきた。

 それは作法とは言い難いのかもしれないが、そこには確かに「心」があり、紛れもなくその時代を生き抜いていく強さだったと思う。
 それから時が流れ、そういうある面で固定的な関係を崩していくこと、自由、平等の広がりのもとに日本社会が高度成長を果たしたのは現実であろう。
 しかしその歩みの中で、実は頑張りという木を支えていたと思われる「分」や「節度」という地盤は脆くなっていった。

 家や地域を通じて知らず知らずに慣習的に教わったことはある。しかしそれらはきわめて限定的な部分でしかなかったし、その時代テレビなどで繰り返し流される自由な世界と比べられ、実は窮屈な印象を植え付けられながら心に残ったのかもしれない。

 自分に何故作法が身につかなかったかの言い訳をしてもつまらない。

 「躾け」と「嗜み」という言葉に注目してみる。
 躾けはやはり幼いうちである。
 躾けられていないと自覚した者は、嗜むしかない。
 この本で「嗜み」は、躾けられたうえに楽しんで行うといった意味合いで使われており、もちろん本来はそうだろうが、もう一つ「心がけ、用意、覚悟」といった意味もある。

 「作法を嗜む」という心がけは、著者が示した原則ともいうべき「上中下(真行草)」と「天地人(時所位)」の考え方による行動に通ずる。
 紹介されている多くの作法を身につけることは無理でも、いくつか重要なことさえ徹底すれば、成ることかもしれない。