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通信発行はあれこれ抱えている

2010年12月20日 | 雑記帳
 11月に花巻での「鍛える国語教室」に参加した時、「はがき新聞」の実践発表があり、興味を覚えた。
 その時に理想教育財団の名前が挙がっていたので、先日検索して探したらずいぶんと学級通信等について様々な活動をしていることを知った。

 『通信づくりハンドブック』という小冊子がもらえるというので申し込んでみた。
 通信発行は、自分の仕事のなかでかなり大きな位置づけである。サークルをしていた頃は何度か論考めいたことも書いたし、雑誌に実践掲載もしたことがある。自分の中ではかなり考えが固まっている領域と言える。

 そうはいっても、今回いただいた冊子に書かれていることには納得することが多かった。
 「通信活動の可能性とは」と題して、吉成勝好という方が執筆されている。
 吉成氏は通信活動に「学校の中に『肉声』を回復すること」という意義づけをしている。もちろん、それは通信の形式、内容に関わることである。
 「肉声」という括りは難しいが、それはともかく出したらよいのだ、というのが私のスタンスである。

 通信の記事を通して、発信者の教育者としての「目」「感覚」「価値観」「教育観」が、白日の下に晒されるということを意味しています。
 まさしく自己を「開く」行為です。

 
 通信による自己開示ということをずっと考えてきた、そういう手段を用いてきた自分には心強い言葉だ。
 同時に、畏れなければならない言葉でもある。

 通信発行の目的を「双方向性」とする文章は多い。この吉成氏もその点は強調されている。
 しかし現実にはなかなか難しいことだし、何をもって双方向であるかは判断が難しいとも言える。

 ある意味で、ここは割切って「教師理解を進めてもらおう」という気持ちではどうか。もちろん、どういう記事を通してそれがなされるかがポイントとなる。
 一つには授業であり、一つには子どもの様子や作品であり、また教育に関わる様々な出来事も入ってくるのではないか。
 吉成氏は危惧している。

 制作者の自己満足や活動証明に終わるだけの通信 

 こんなふうに評価される危険性は絶えずつきまとう活動である。
 それでもなお続けなければ、見えない、高まらない力はある。

 通信発行はそんなあれこれをみんな抱えている。