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「鍛える国語教室in花巻」ふり返り③

2010年12月01日 | 雑記帳
 最終講座『教師の品格を高める』…冒頭に野口先生はこのようなことをおっしゃった。

 (人間の言動の)見えていない部分が大きいことを、品格・風格があるという

 普通に考えるとそうした印象は可視の部分で判断しがちだが、「滲み出てくる」という言い方があることを考えると、確かに実体は内面を指している。
 だとすれば、内面を形づくる環境つまり出自や経験などによって左右されることは言うまでもない。

 今回は、要素の一つとして時間的な流れつまり自己における歴史認識の話である。
 それは個人的な歴史ではなく、個を取り巻く大きな意味での歴史が主たる対象だった。
 しかしまたそれは学習という個人の歴史抜きに語れないことも確かである。

 講座の中で野口先生はこう語られた。
「秩序が安定をもたらし、安定が安心をうむ。秩序が保たれるのは差別があるからだ」…先生でなければ到底広言できない言葉だからこそ、重みがある。
 その考えを、皇室を例に様々な資料を紹介しながら説明していく流れには、揺るぎない思想に裏打ちされていた。

 先日読み終えたばかりの『メメント』(森達也著 実業之日本社)に「現代史の教育現場とメディア」という章があり、そこで森は現代史を教えることを躊躇っている教師の多い現状に対し、「押し付けてよいのだ」と激励する。そして思想の多様性を認め、このような書き方をした。

 歴史の本質は史観だ。言い換えれば見方。つまりは主観。 

 一貫性を強調される教育現場の中では、ともすれば論争のある題材については避けて通る、少しボカシテしまうのが通例である。
 しかしそれでは結局のところ、拠るべきものがなく、非常に脆弱なままになってしまう。
 被害者面をするわけではないが、そんなふうにして自分の歴史認識も高まらなかったのか。

 野口先生の語る言葉が明確で力強いのは、主観がはっきりしているからであり、だからこそ伝わってくる。
 様々なことを知り、学ぶことは必要だ。しかし歴史において客観性、中立性はどこまでいっても幻想といえるだろう。
 だから、私は情報を語る人の強さに惹かれてしまう。
 
 「思う」ことが歴史なのだ 

 森のこの言葉に肯いてしまう。
 ただ心したいのは、その場で情感的に鵜呑みするのではなく、書き留めた言葉を反芻してみたり、自らに問いかけてみたりすることを忘れないことだ。

 品格つまり不可視の内面を形づくるのは、そういう作業ではないか。