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現場で人を耕すということ

2010年12月24日 | 雑記帳
 一年に一回買うかどうかの『文藝春秋』誌(2011.1)を、なんとなく手にとってみたのは先週だった。
 特に読みたい記事があるわけでもなかったのだが、たまたま他に目につく雑誌がなかったということだろうか。

 パラパラめくって、いくつか興味のわく記事があった。その一つに「引きこもりの僕を変えた松田優作」がある。
 書いているのは、今まさにその存在感の強烈さでは屈指の俳優とも言える香川照之。

 最終的には、近々放送されるNHKドキュメンタリーの紹介文のような内容だったが、なかなか読ませる文章だった。
 松田優作と香川が出会い、その付き合いはわずか二カ月という期間だったが、きっと香川にとってエポックメーキング的なことだったのだと思う。

 やや神話化されている松田優作の存在は、もしかしたら複数の俳優の心の中に生き続けているのではないかと予想される。当時は若くよく見えないままだったことが、齢を経て明確になり、自分の存在感も増しているような、そんな役者は香川の他にもいるのではないか。
 香川はけっこう言葉の使い方が巧みのように感じるし、その点で語り手として適任だったのかもしれない。

 こんな文章がある。

 優作さんがやっていたような、現場で「人を耕す」、いわば精神的な耕作こそ、自分が同じようにやらなければいけない作業だと感じています。 

 あの『龍馬伝』を取り上げ語ったいくつかの番組で、香川が主役である福山を実によく持ちあげていた?理由の一つに、それがあったのではないか、そんなことが思い浮かんだ。
 そしてまた、自分の仕事もかくあるべきと一つ学べる言葉である。

 さて、22日に放送された当の番組は、制作面では今一つの切り込みが不足のように感じた。
 http://www.nhk.or.jp/tamago/program/20101222_doc.html

 最後に香川が松田の写真を前に独白するシーンがあった。

 「ゼン…ゼンテキな責任をもって~~」 
 という言葉に、おそらく「全的」だろうと思いつつ、もしかしたら「善的」もありうるかと頭をよぎる。

 悪のイメージも強い松田だが、スクリーン以外の姿を語る人々から、そんなふうに連想させる言葉が数多く出されている。