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野蛮人入門挫折

2011年12月17日 | 読書
 続けて『身体を通して時代を読む ~武術的立場~』(甲野善紀・内田樹 文春文庫)

 野蛮人には、生き難い世の中になっている。
 動物園のシマウマとサバンナのシマウマを比較しながら、内田氏がこう語る。

 僕はこういう生物の本質的な生命力の衰弱は「平和のコスト」だと思っているんです。平和であるというのは、そのコストを受け容れるということではないでしょうか。

 野蛮人たちは、そういう世の中で「生き延びる力」を開発しようとしているのだが、そんなに努力しなくとも生き延びられる世の中になっている現実はあるわけで、その声はなかなか直接に伝えにくい。

 しかし、いったん事があるときに、それらの存在は大きく光を放つのではないか。
 この対談は数年前に行われていて、内田氏が阪神淡路大震災のことについて触れている箇所がある。そこにも文明人に対する的確な批判がある。

 中央に中核的な司令部を作って情報を一元的に管理し、優先順位に従って適切な資源配分をしようじゃないかという提案そのものが「平時」の発想なんです。

 この件はまさしく今年の現実でもあったと、誰しも感じるのではないか。
 今年の東日本の悲惨な現場の中でも、かすかに光放つ存在であった方々は、現場のシグナルをすばやく聴き取り、マニュアルなしに突き進んでいることを改めて思い起こす。

 そういう方々はいつも現場にいて身体を使っていることは、間違いないことだろう。
 そして、おそらく自分のしていることの「正しさ」を声高に主張はしないし、これでいいのかという自問を抱えながら、それでも前に進むという姿勢を崩さない。

 甲野氏が紹介した言葉が沁みる。

 動けばそれが技になる

 実際、野蛮人はいつも動くことで、自身を高めている。
 よく使ういい表現を見つけた。「手さぐり」である。
 見えるものにしか手を伸ばさないのではなく、常に手を出してみてその感触によって先に足を進めていく…野蛮人の極意見つけたり!
 ってあまりに早すぎませんか。

 こんな朝っぱらから、キーボードとマウスの生活をしていること自体、もう文明の塊みたいな者だから、いいかげんあきらめなさい。ともう一人が言っている。