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「評価」が、評価であるために

2011年12月01日 | 雑記帳
 師走に入った。

 評価について、今日のPTAの時に少し話そうかと考えた。
 保護者アンケートの結果公表ということもあるので、それに絡めながらきり込んでみようかと思う。
 大まかにこんなふうに筋を考え、レジュメに表した。

 見えるもの、見えないもの
 見える角度によって違う
 そのときの気分によって?
 そもそも何のために


 深い考えもなく書いてみてから、ふと「評価」という言葉そのものが気になった。
 熟語のでき方としては「価→評」つまり「価値、価格などを評する」ということだろう。
 となると、問題は「評」だ。

 『常用字解』が今ないのは残念だが、手元にある漢和辞典を引いてみる。

 【旺文社漢和辞典】
 会意。言と、公平の意を示す平(ヘイ、ヒョウ)とを合わせて、公平なことばの意

 何か単純すぎて、しっくりこないなあ。

 【学研漢和大辞典】
 会意兼形声文字で、ことばを平等にそろえてぶつけあうこと。

 うん、これは面白い。
 「平」は「浮き草の上端が一印の水面につかえてたいらにそろったさま」とある。
 なるほど、ことばを浮き草に喩えて、様々なことばが一定のライン上で交わされることを「評」と呼ぶか。なかなかイメージがわいてくる解説である。

 「評」とは、本来そうした場をあらわしていて、そこで行われる言語活動を指しているということだと思う。
 むろん、複数の、大勢によって行われる活動が主なのだろうが、それを自分自身の内部においても実行できることが望まれるわけだ。

 つまりその条件は、内部に複眼的視点を持つことを第一とし、可視化できること、できないことの区別をはっきりとして観点を設けること。
 偏った情報やその時の気分に左右されずに一定の継続があること。
 そして評価される側にプラスになることが意識されたものであること。

 単純にアンケートと、成績評価のようなことを一緒にはできないが、少なくとも次の点は強調できると思う。

 何本の浮き草が一定ラインまで上がってきましたか。
 つまり、複数の観点で、複数の理由づけをできていますか。

 「評価」が評価であるために、しっかりネジを巻いて学期末に向かいたい。