すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

支点なき世界へ

2011年12月03日 | 読書
 先週読了した『奇跡のリンゴ』は読み応えがあり最高級の評価をしたが、この一冊も強烈だった。

 『身体から革命を起こす』(甲野善紀・田中聡  新潮文庫)

 武術家、身体技法の実践家として著名な甲野の実践を、彼の言葉を中心にしながらライターの田中がまとめ、甲野に教えを受けた、感化された著名人の声と合わせながら構成されている。
 甲野の主張、実践は、異端として受けとめられることが多いが、実は理にかない、人間という身体の本質に照らし合わされて導きだされていることが、数々のエピソード~武術、スポーツ、音楽、介護などによって語られる。
 そして「常識」や「正しいこと」の抵抗は思った以上に強いものだと知る。

 それらをうまく配置しながら論を進めている田中の表現は、私という読み手に結構キツイことを突きつける。

 どんな世界でも、教師が「正しいこと」として教えるのは、すべて過去の習慣や制度のなかでの「正しいこと」に過ぎない。

 様々な世界で常識となっていることが、歴史的経緯の中で実は間違っていたと結論づけられたことは少なくない。そういった事例は毎日出されているといってもいいだろう。
 しかし、と思う。
 教師が今「正しいこと」と認められていることを現実に教えるのは仕方ないではないか、仕事を100%納得できているわけではないが、それは生活の糧であり、同時に生きる支えになっているのではないか。
 と、言い訳モードで読み進めていくと、またその足元を払いのけるような考え方と巡りあってしまう。

 支点とは、自分にとっての拠りどころでもある。(中略)したがって、動かない支点が、自己の実感につながることになる。

 そうやって、「筋肉をぐっと緊張させ」「ふんばる」「力む」が、今の自分を作ってきたのではないか。その中で「概念化を強固にするにすぎない自己確立」を図ってきたのではなかったか…急にそんな不安めいた気持ちが渦巻く。

 流れるものと、ふんばるものと。
 生きているものと、構造と。
 どちらを求めるか。


 田中のこの問いかけは、重いと感じる。
 そして、その意味を根本から理解できるか、といった時に、それを理解できる身体になっているわけがないことに愕然とするのである。

 支点なく流動する静謐な動き方が重要になる。支点を蹴る緊張感に自己を確認して安心するような意識に支配され、概念にすぎない構造をなぞるように動いている身体では、世界の現象は客観的な出来事としてあるだけである。

 私の身体は今ここに確かにあるが、それは「生きている身体」ではない。
 「実感」ということさえ分析的に見ている自分が、途方もない世界に入り込むには、いったい何が必要なのか。
 エコーのように誰かの声がするばかりである。