すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「祝福」の時代にしよう

2011年12月29日 | 読書
 連れと待ち合わせる時刻まで30分あったので、ちょいと秋田駅前のJ書店に入った。

 エスカレーターから書店入口にいくとすぐ新刊本のコーナーがあり、目に入ってきたのは『原発と祈り』という内田×名越の対談集。すぐ一冊とって教育書コーナーへ向かおうとすると、「当店の今週のランキング」が掲示されている。その1位は…

 『呪いの時代』(内田樹 新潮社)

 こんな東北の地でも1位なんだあ、さすがベストセラー作家だあと思わず感心してしまう。
 そして、それじゃあどのくらいの人がこの考え方に影響をうけているのだろうか?結構な数だとすれば、もしかしたらこの県だって明るい未来が見えるかもしれない…などと短絡的な発想までしてしまった。

 それはともかく対談本に先駆けてページをめくったこの本も読みどころが多かった。
 一番考えさせられたのは第三章「『後手』に回る日本人」である。
 もはや得意技といっていいほどの日本人論だが、切り口が面白いのでつい引き込まれる。

 アメリカの大統領選挙、演説などを皮切りに、歴史的経緯から世界におけるアメリカという国の特殊性を描きだしてみせ、日本の政治家との違いを際立たせる。
 
 武道の言葉で言うと、アメリカは基本的に「先手」の人であり、日本は「後手」の人ということです。

 そしてそれは当然のことながら、政治家にとどまらず、いわゆる国民性として深く根付いていることは間違いない。
 納得の一言はこうだ。

 相手がこう来たらこう返す、こうされたらこう逃げるという受け身の姿勢でいること、つねに状況に対して「後手」に回るという日本の政治文化は受験生に似ています。

 それを「受験生マインド」と呼び、出された問題に対する解答、最適解を求めるという習性が深く染み付いていることを指摘する。もちろんその能力に長けていること自体を否定はできないが、政治家の言い逃れや言いつくろいという「小技」が、これだけ日常茶飯事化している現実は悲惨と言えるのかもしれない。

 端的にいえば、教育現場にあっても結局「後手」得意の日本人の育成が現状ではないか、そんな考えが浮かぶ。
当事者である私たちはそれをどのレベルで理解しているだろうか。考えているだろうか。

 夏に、本県教育の重点として示された「問いを発する子ども」について駄文を書いた。
 その1
 その2
 その3

 私の問題意識はそこ止まりだし、それ以上構造的な段階へ踏み出していっても、道に迷う気がする。そこにこだわりたい。

 内田氏はこう書いている。

 武道的観点から言うと、「問題に正解しなければならない」という発想をする人は、構造的に敗者であるということになります。

 武道の嗜みはないが、それはわかる。
 しかし「構造的に敗者」という表現を、傍点で強調していることは、もう一つ俯瞰的にみた方がいいという意味だろう。
 そんなことからまた「呪い」に嵌ってしまっては元も子もない。

 目の前の出来事、事象から問いを立てる習慣、そういう感覚を養いながら、「祝福」すべき時代にしようという心構えだけは忘れてはならない。