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心情を見失ってはいけない

2011年12月02日 | 読書
 知り合いの先生から、質問メールが届いた。

 曰く
 「気持ち」と「心情」はどう違うのか。

 学習指導要領の「文学的文章」に関わる文面が校内で話題になったらしい。

 第3・4学年 ウ 場面の移り変わりに注意しながら、登場人物の性格や気持ちの変化、情景などについて、叙述を基に想像して読むこと。
 第5・6学年 エ 登場人物の相互関係や心情、場面についての描写をとらえ、優れた叙述について自分の考えをまとめること。


 自分にそういう視点はなくあまりこだわっていなかったが、言われれば変な気もする。交換可能のようにも思うし、いややはり若干の違いはあるだろうといくつか思い浮かんだこともある。

 辞書、検索、そして指導要領解説の文章などを見ながら、自分なりの考えを書いて返信した。

 その過程で、本当に久しぶりに取り出した書籍がある。もしかしたら5年くらい見ていないかもしれない。

 『国語教育研究大辞典』(国語教育研究所編 明治図書)

 1988年の刊である。その割に汚れていない。いかに丁寧に扱ったか…いやいや、手垢がつくほど活用していないか、ということか。

 さて、課せられた二つの言葉である。
 「気持ち」は見当たらない。やはり生活語、ごく一般的な語彙でもあるのでということだろうか。
 「心情」と見ると…ある、ある。さっそく開いてみる。
 項目立てがなかなかしゃれている。

 「定義への探索」「特性、その周辺」「指導上の問題点」

 執筆したのは…おお、橋浦兵一先生ではありませんか。
 大学1年のときに何かの講義を受けたことは記憶している。劣等生だったし、たぶんCだったろう、などと余計なことまで思い出す。

 解説の文章はなかなか難解な部分もある。しかし、繰り返し読むと実に興味深いことが書かれている。
 漱石の『虞美人草』を引用して、こんなふうにまとめる。

 「心情」とは、言葉を越えた心底の情感であり、まさに「推察」するほかはない思念である。

 そして、いくつかの辞典、字典の文章を紹介し、「理解しがたい説明」と書きながら、このような「推察」をする。

 あらゆる心の状態を発現させる情感の働きを肯定しているように見える

 「心情」は「秩序」と大きく関わる用語として展開していく。
 作中人物の造型を例に、造型が人物の状態や行動に秩序を与えると同時に、自己批評と再生を可能にするためには、「心情」との交流が必要だという。

 言葉の「表現秩序」という面において「心情」との交流は、文学的文章に限らず説明的文章にも当てはまることだという。
 時間や論理の秩序の根底にも心情があるという論は、自分の中で消化しきれない気がするが、次の言葉は感覚として呑み込むことができる。

 すぐれた文章はすべて感動を伴い、新鮮な心情の流れが寄り添っている。

 課題に近づいた一つの結論。

 心情は流れているものである。

 習慣的生活の中で見失ってはいけない。