『身体を通して時代を読む ~武術的立場~』(甲野善紀・内田樹 文春文庫)
この本の「文庫版のためのあとがき」に記されていることである。対談している二人と、名越康文、茂木健一郎の諸氏が招かれた養老孟司氏主催の忘年会。
内田氏が養老氏に、どういう基準の人選か尋ねる。それに答えた一言が素敵だ。
「野蛮人て、ことだろ」
養老氏は何かの対談でもその言葉を使っていた気がするが、この忘年会の面々(これに池田清彦氏が加わるという)と照らし合わせると、実に納得がいく?
内田氏は、その意味を「脳ではなくて、身体で考える人間」と解した。
その考え方の重要さと、エピソードと、現状への辛辣な批評にあふれた対談集となっている。
野蛮人を目指すなら?必須の本と言えるだろう。
「武術的立場」から、社会や教育のことを語っている二人の強者。
風呂の中でページをめくっていて、思わずクーゥッと声を出しそうになった件がある。
子どもと同じ目線で、同じフロアで、同じ価値観を共有しあって共感し合いましょうというのは、はっきり言って教育の自殺行為です。
教育が自殺するという比喩の痛烈さを、教育を仕事とする自分がどれほどの重さで受けとめればいいか、少しドギマギしてしまう。
様々な受けとめ方があるだろう。しかし方法論として単純に見てはいけないことは確かだ。
「子どもが主人公だ」も「教師が主役だ」も、実際の場でどんな教授と学習が成立していたか(いや、それを双方の学習という表現する教師もいる)こそ全てであり、個々の変容をどう受け止めたか…ここに、もしかしたら脳だけでなく身体もかかわりあってくるのかな、と考えさせられる。
具体的な教え方として、野蛮人ならまずどうするか。
一緒に遊ぶ、声を出してみる、いっぱいモノを集めて見せる、ほらほらと手を添える…うん、身体を動かしていると思う。
もちろん、そんな単純なことでないことはわかる。
しかし、まずは「入門」なのである。
野蛮なことを見せる、誘うから始まるのではないか。
この本の「文庫版のためのあとがき」に記されていることである。対談している二人と、名越康文、茂木健一郎の諸氏が招かれた養老孟司氏主催の忘年会。
内田氏が養老氏に、どういう基準の人選か尋ねる。それに答えた一言が素敵だ。
「野蛮人て、ことだろ」
養老氏は何かの対談でもその言葉を使っていた気がするが、この忘年会の面々(これに池田清彦氏が加わるという)と照らし合わせると、実に納得がいく?
内田氏は、その意味を「脳ではなくて、身体で考える人間」と解した。
その考え方の重要さと、エピソードと、現状への辛辣な批評にあふれた対談集となっている。
野蛮人を目指すなら?必須の本と言えるだろう。
「武術的立場」から、社会や教育のことを語っている二人の強者。
風呂の中でページをめくっていて、思わずクーゥッと声を出しそうになった件がある。
子どもと同じ目線で、同じフロアで、同じ価値観を共有しあって共感し合いましょうというのは、はっきり言って教育の自殺行為です。
教育が自殺するという比喩の痛烈さを、教育を仕事とする自分がどれほどの重さで受けとめればいいか、少しドギマギしてしまう。
様々な受けとめ方があるだろう。しかし方法論として単純に見てはいけないことは確かだ。
「子どもが主人公だ」も「教師が主役だ」も、実際の場でどんな教授と学習が成立していたか(いや、それを双方の学習という表現する教師もいる)こそ全てであり、個々の変容をどう受け止めたか…ここに、もしかしたら脳だけでなく身体もかかわりあってくるのかな、と考えさせられる。
具体的な教え方として、野蛮人ならまずどうするか。
一緒に遊ぶ、声を出してみる、いっぱいモノを集めて見せる、ほらほらと手を添える…うん、身体を動かしていると思う。
もちろん、そんな単純なことでないことはわかる。
しかし、まずは「入門」なのである。
野蛮なことを見せる、誘うから始まるのではないか。