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対話というナマモノ

2012年06月09日 | 雑記帳
 付属小学校の公開研究会に久しぶりに参加した。
 元同僚が今春より勤務したので、その初めての公開授業が楽しみだった。
 
 「仲間と共につくる 豊かな学び」という研究主題、そして副題として「『対話』を通して思考を深める授業づくり」が掲げられている。
 不遜な言い方をしてしまうが、なんだか普通だなと思った。

 キーワードは「対話」。それを流行とは呼びたくないが、教育計画冊子を一読しても、それほど新鮮に感じられないのはどうしてだろうか。
 次のような文章がある。

 本校では「対話」の概念を、「ペアになって話す」といった話合いの一形態を表すような狭義の意味ではなく、より広義の意味でとらえていく。

 もっともなことである。
 この文言に関連して、少し前から自分の中にある一つの問いが生まれている。

 対話の基礎体力

 これは、劇作家平田オリザ氏が月刊誌の連載で用いた言葉である。
 そこで氏は、小・中学校では対話の技術ではなく「対話の基礎体力」をつけてほしいと書いている。
 対話の基礎体力とは何か、そしてどう育成していくべきか、それが一つの問題意識となっている。

 従って、付属小で考えている広義のとらえは妥当とも思えるのだが、それではあれも対話、これも対話であって、かなり広範囲の活動を指し示しているに過ぎないのではないか、などという考えも浮かぶ。

 つまり理念、目的としての対話と、活動、手段としての対話が錯綜していることがなんとなく落ち着かない。
 ここはすっぱり、対話という形式を絞り込んで突きつめてほしかったなあ、というのが正直な感想である。

 もちろん参観した授業はどれもさすが付属の教員であり、主張もあったし、レベルも相応のものだったと思う。
 しかしどこか迫力が感じられなかったのはなぜだろう。

 全体会講演で、講師が話されたなかに「ずれ、とまどい、失敗を大事にする」という一言があった。
 そういうナマモノ的な部分が少なかったのかなあ…そんな印象が残る。

 これはやはり研究の方向とかかわるのではないか、と思えてきた。