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偉そうな私の困り事

2017年06月02日 | 雑記帳
 「それで、困ることはありますか」…そんなふうに医師に訊かれるのは二度目である。たった2回で判断はできないが、この言葉は常套句なのだろうか。昨年と今年なので、最近の傾向だろうか。もちろんたまたまかもしれない。こんな問いにひっかかりを持ってしまう自分の心の狭さを自覚しつつ、えぐってみたい。


 ドッグの検診で何か気になる症状がないかを訊かれ返答したら、冒頭のように問い返されたわけだ。この言葉は、二つのパターンが考えられそうだ。一つは症状をさらに追究し改善のための方策を授けようとする方向、そしてもう一つはおそらく、さほど困らないのに気にすることはないという遠回しな助言である。


 (山法師、咲きました)

 大方は前者の方向だろう。ただ、二度とも私の返答が「特に…、ただ~~場合があるくらいですかねえ」となんとも深刻さに欠けたものだったからか、対した医師は、どちらも軽く頷き「それならいいじゃないですか」というニュアンスを口にした。そこで「今、困っていないからいいのか」という感情が湧いてくる。


 健診は、病気予防のためであることは間違いないわけだから、実は、この問診が一番ダイレクトで重要じゃないかという気がしてくる。つまり「気になること」が、将来「困ること」にならないために、様々な想定をめぐらせてみるということである。「気にしない」ことの有効性も認めるが、そちらが優先ではない。


 現在ではなく将来困った事態に陥らないために関連しそうなことへ警戒を促す。「困っている」ではなく「困りそうだ」に目を向ける。「困」という漢字は成り立ちから「門限」を指す意味がある。ゆえに人生の門限は迫ってからでは遅すぎる!と、偉そうな私を「だから何度も言ってるだろ」と検査データが見つめている。