すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

年をまたいだキニナルキ

2021年01月07日 | 読書
 読書メモと並行しつつ「キニナルキ」という観点は、このブログを始めたきっかけだったが、この頃取り立てて書くことが少なくなった。
 文体に堪え性がなってきたから仕方ないかと思いつつ、残すべき「キ」があるならば躊躇わず書くほうが精神衛生上もいいだろう。


 豪雪の合間の青空 2021.1.6

 今の自分は、図書館といういわゆる教育関係に籍があり、学校への読み聞かせの訪問も続けている。非常に限定された関わりの中で口幅ったいことを呟くのは控えめにしていたのだが、年末に石川晋さんのブログを読み、考えさせられた。
それは、こういう文章だった。

「学校の教員の仕事は、生産ラインの前で部品を組み立てる感じではなく、自分の手作りの作品を丁寧に持ち寄る感じに近いものだと、心のどこかでまだ思い続けていた自分にも気づかされました。学校はもう、全然違う場所になっていました。」
「すぽんじのこころ」 2020.12.29 より

 石川さんは数年前から現場を離れ、「学校の伴走者」として教員と多くのかかわりを築きながら、学校ウォッチングを続けてきた。その彼が、コロナに直面した学校と教員の様子を見て、そう表現していた。

 この比喩を自らのこととして思い描いた教員はどれほどいただろうか。
 「生産ラインが急に止まっても持ち場を変えずに、ラインの所定の場所の前に立ち続けて、動き出すのを次第にイライラしながら待ち続ける人のよう」


 農業が工業化していく歴史を私たちは知っている。また、様々な物品の製作過程がオートメーション化され、果ては必要な人間の「働く量」が少なくなっている現状もよく見聞きしている。そして、教育はどうか。

 現場に立つ人間は、子どもとのやりとりを通して個と個、個と集団のあり方に心を動かさない日はない。それはどんなに小さな願い、安堵、疼き…であっても、必ず一日に何度も何度も繰り返される。
 そうした思考や感情を見つめ直しながら、筋立ててみることが今肝要ではないか。

 何故自分が教職を目指したのか、その根を問う作業をしてみるいい機会だ。