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繰り言は、歴史学者も…

2021年01月16日 | 読書
 歴史学者としてメディアでの露出も多い磯田道史氏が、購読している雑誌の冒頭エッセイに「無為・無意識を大切にする教育へ」と題して、文章を寄せている。

 子どもに無意識行動(遊び)が多いのには、ちゃんと理由がある。あれは無意識で得られる雑多な情報体験を脳内に貯金しているのである。この雑多な体験は建築に例えれば建材である。(略)建材が多ければ、どんな建物でも建つように、なれる人間の余地もひろがる。だから、教育は「無意識」という子ども自身がもつ自然の流れを大切にしたい。

 磯田氏は、社会や学校のなかで「目標」「計画的」「到達点」といった言葉に縛られた教育や日常行動に疑問を呈し、もっと子どもの好奇心や感動・熱中できることにシフトいくべきと提言している。

 こうした考え方は目新しいことではない。磯田氏は「21世紀半ばはこれらが教育上、大切になる」と結んでいるが、これは20世紀中に少なくない研究者や実践家が語ってきたことであるはずだ。



 小学校教育だけを見ても、生活科や総合的な学習の時間がつくられて、そうした理念が繰り返し叫ばれてきている。先進的な営みを続けている学校の研究会が公開され、様々な資料も出版され、それぞれの地域や学校で実践が試みられてきた。
 自分の些細な取組みのなかでも、例えば「没頭」をキーワードに構想した学習の記憶もある。


 それなのに、なぜ定着しないのか。
 子どもの「遊び」をもとにした発想を生かし、興味・関心が継続していくような教育の進め方が浸透しないのか。

 粗く二つの原因があると考えている。
 一つは、子どもに寄り添う人(教師等)の問題。自らの経験(無意識行動)が弱い。
 もう一つは、学校システムにそもそも馴染まない。

 書きながらこれらも結局言われてきたことかと思いつつ、もはや悪いサイクルに入っている現状への打開策をなかなか見つけられない。

 「建材」という語を頼りにするならば、せめて数多くの材を提供すること、つまり「多様な体験」を積ませることと、強度を高めるための「自力解決の場」を保障することだと思う。
 そして、それらを近視眼的にチェックしたり評価したりしようとせずに、つかず離れず見守ることか。

 これらが実現するためには家庭や教室だけでなく、地域社会や職場、そして国全体がそういう姿勢であることが必須だ。しかし現状は厳しい。
 どこかが崩れているから、重要さは共有されず、次第にぼやけ、毎度同じ事が繰り返されるのだ。歴史学者は結構そのことを知っているはずだが…。


 それでも大事なことは言わなくちゃいけない。
 一人でも、微力でも、目指す道を途絶えさせないよう口を開いていこう。

 少し気負ってしまったか。