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桜と絵本と豆乳と

小説は水車のように働く

2021年01月26日 | 読書
 『ちくま』2月号を読んでいたら、ある書評で洒落た一節に出会った。

「言わずもがなのことではあるが、おもしろい小説があればそれはミステリである。ミステリとして読むことのできない小説が読者を魅了する可能性はない。」

 おっと思う。この「ミステリ」がいわゆる分野としての推理小説を表しているわけではなく、神秘や不思議というもともとの意味なのだろうと思いつつ、重層的な遣い方に感じた。文章はこう続く。

「理由は単純である。ミステリではない小説には問い(謎)がないからである。」

 なるほど。小説を書くきっかけは問いであり、謎であるという点は当然のように見えて、指摘されて気づかされた。



 筆者である横田創(小説家)という名は初めて見たし、当然作品も知らない。
 書評の対象は新刊本『睦家四姉妹』(藤谷 治)という書名で、想像するに家族小説?のようだ。どんな筋なのか全く見えない段階ではあるが、取り上げて寄稿したからには「ミステリ要素」が詰まっているのだと思う。

 そこからまた筆者の面白い自論(たぶん)が展開される。

「ミステリとしての形式は大きくふたつに分類される。読み進めるうちに過去(謎)が解き明かされてゆく推理小説型と、未来(謎)が解き明かされてゆく冒険小説型である。」

 そんなふうに区分することは、可能なのかもしれない。
 ただ明確に分類できるというより、どちらの比重が大きいかとか、構成によって変化がみられるのが多いだろう。
 現に、取り上げた小説も「全体の構成は冒険小説型、章ごとの構成は推理小説型を選択した連ドラ型のミステリ(小説)である」と記してある。


 勝手に連想を働かせれば、人の生き方もそんなふうに解釈できるのかもしれない。ミステリがあるからこそ面白い
 過去の謎を解き明かすことは稀かもしれないが、未来を解き明かさなければならないのは、常に突きつけられていると言ってよい。

 しかし、現実にはそんなにドラマチックではないし、その日常を少し増幅させてみたいという願望が、小説などに目を向かわせる。
 直接、自己のミステリの解決策が示されるわけではないが、どこかに示されることによって、心が動かされることを期待している。

 
 この書評の結びの部分も洒落ていた。上手い表現だと唸った。

「小説は語らない。何も言わず回る水車のようにただそれは働いている。ミステリとは意味(謎)の灌漑システムである。」