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心の安定を馴らす日常

2021年09月17日 | 読書
 『デザインのめざめ』(原研哉)からもう少し。「ミイラとりがミイラになる」というのは「捜索者が遭難者になる」という意味だが、当然考古学者がミイラの発掘をするイメージで捉えていた。しかし事実は、ミイラに巻いてある布が埋蔵資源として盗掘されていたらしい。「盗人が墓穴を掘った」意味がふさわしいか。



 森田真生という研究者が実に明晰な解説を寄せている。その中に、原の「優れて独創的な見解」として、「こん棒」と「うつわ」のことを挙げていた。原は、人類が創造してきた道具はこの二つの系統に分かれると著している。握って振り回すこん棒、そして両手をそっと合わせて何かを入れるうつわ…刺激的な発想だ。


 引用されている数学者岡潔の言葉には考えさせられた。「すべては『そうであるか、そうでないか』の問題ではなく、『それで心が安定して心の喜びを感じられるかどうか』の問題なのだと思う」。自然数の「1」がそもそも何かというより、「1がある」という「宣言」と「実感が共有」されることが大事。目を開かされる。


 それは数学に限ったことではない。目の前の事象に対して、各自の立場によって判断はなされる。善悪、適否、美醜等々、客観的な、いや限定された範囲での評価や価値はあるにしても、最終的には主観である心の安定度で決着をつける。具体的に周囲との折合いも配慮するが、心をそう「馴らす」日常がより重要だ。