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読み逃せない一節に逢う

2021年09月27日 | 読書
 静謐な文章の書き手を特定できるほど読書家ではないのだが、その狭い範囲で挙げられる作家は小川洋子とこの堀江敏幸だろうか。もっともそんなに作品を読み込んでいるわけでもないし、イメージ化できない難解な部分も正直多い。ただ、断片的ながらそのどうにも落ち着き払った文体にこちらが落ち着かないのだ。


『象が踏んでも』(堀江敏幸  中公文庫)


 講演会などで前列に座る「老年」者たちの表情や眼光、聴く様子などから「学ぶ」ことの意味に思いをはせる文章がある。串田孫一の『ドン・キホーテと老人』の話を引用しながら、死ぬ間際まで本を話さなかった老人に対して「途切れたままの雰囲気が妙に貴く思われた」と書いた串田の心情を今になって汲み取る。


 こんなふうに、途切れたまの雰囲気が持つ「勉強の仕方」を語っているのだ。「具体的な目的があっての勉強ではない。理屈抜きに知ることが楽しくて、それを糧にしてきた人間だけに許される、終わりのない『通過点』だからこそまというる空気」けして声高ではないが、一語一語に重みを感じて読み逃せなかった。



「読書日録」の冒頭に、今の時勢だからこそ、ことさらに響く一節があった。それは「会う」意味だ。様々な作家や研究者などの文章に触発されながら、「会う」と「生きる」ことの関係を深堀りしてみせる。人はなぜ会いたいと思うのか。会えずに耐えていることが「生きているしるし」という見方も紹介する。


 そしてこんなふうに今多くの人が噛みしめてみたい一節で結ぶ。「大切なのは『会わない』ことの濃度である。いかにあたたかく、またいかに淡々と『会わない』時間を受け入れるか。生を意味づけるこの豊饒な否定の世界に、私はいま思いを凝らす。」…簡単に何かで代替してはいけない「会う」の本質が見える。