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困難はそこにある

2021年10月28日 | 読書
 副題が「父と娘の困難なものがたり」とある。この「困難」をどうとらえ、どう読み取るか。一つは親子関係という困難、そして、紛れもなくこの時代の困難があるだろう。きっと、いつの時代にもいくらかあったと予想するが、地球環境の危機的状況が迫っているように、確実にその度合いは増しているのだと思う。


『街場の親子論』(内田 樹・内田るん 中公新書ラクレ)



 父の語るプロローグでは、自らこの往復書簡集を「微妙に噛み合っていない」と評している。そして、その程度でいいと著者お得意のパターンとも思える肯定の仕方で読者を引き込んでみせる。この著を貫く一つの柱、この国における「共感圧力」の強さへの危惧を、自分たち親子にも当てはめ、在り方を問うている。


 離婚し、父親と一緒に暮らした娘の成長がどんなものか、当然定まった形などない。ただ多くの親子も持つだろう「あの時、こういう思いで居た」と当事者同士吐露できるのは、幸せなことだ。改めて「書く」と「思い出す」ことの強い相関を感じる。同時に「語る言葉が見つからない」という思いに気づいたりする。


 この父にしてこの娘ありと頷くほどに、感覚は鋭い。国の将来について「資本主義はすでに終わっていて、『名残り』というか、エンジンが止まっていてもまだしばらく慣性で車輪が回っている」と比喩した箇所はどきりとした。自分はその「機関車」のどの辺りに乗っているのだろうか、きちんと見極めなくては…。


 娘は「新しい生き方を模索しなくちゃいけない大変さを考えたら、資本主義と心中する方がラク、という人はたくさんいるようで、恐ろしい」と書く。困難に対して向き合わない安易さが、多くの困難を生み出しているのか。安心安全はいつの場合も逃げ口上としての常套句だ。政治も親子もそれだけでは成立しない。