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桜と絵本と豆乳と

キヅクはキズクに通じる

2021年10月05日 | 読書
 同音である「キヅク」「キズク」。漢字にすれば「気づく」「築く」は、語源は違うのだろうが、少し関連付けることがあれば、非常に強く作用する気がする。たまたま読んだ2冊から連想した。




『「意識の量」を増やせ!』(齋藤 孝 光文社新書)


 久しぶりの齋藤孝本。結構読んでいるはずだがこれは知らなかった。背表紙のタイトルにある「意識の量」って何?という疑問が湧いたので、手に取ってみた。
 誰しも口にする語だが、改めて「意識」と何かと考えさせられる。広辞苑の「④対象をそれとして気にかけること。感知すること」がシンプルに該当するのか。
 著者が促しているのは、わかりやすく言えば「気づき」だ。
 誰しも感じるように仕事が出来る人間の持つ特徴の一つが、全方位に渡って気づきを発揮できていることだ。
 そのために必要なこととして、V章「自意識の罠から逃れよ」が核心をついている。自意識をむやみに太らせず、対象や他者に意識を巡らし集中する場をいかに多く持つか。
 日本の教育システムへの提言でもある。



『さようなら窓』(東 直子 講談社文庫)

 家族間の軋轢もあり人との関係をうまく作れない女の子「きいちゃん」の物語、連作短編の形をとっている。
 彼女を救いあげてくれている「ゆうちゃん」の語るエピソードにファンタジー要素があり、魅力的な世界観がある。
「窓」とは何か。
 偽りの家族生活を語ってみせたおじさんがいなくなった後、二人でアパートの一つ一つの窓を観る場面に意味づけられている。「微妙に色の違う光を灯す、一つひとつの窓の内側で生きている人たち」…その窓の灯も、いつかはみんな消える。
 読み終えて、きいちゃんが自意識の塊から脱する話であったなあと考える。様々な人が苦しみや楽しみを抱えながら、灯りを強くし弱くし、その窓の中で懸命に生きていると気づけば、足取りは確かになる。
 きいちゃんの名前は「築き」である。