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みゆきはいつも昭和臭

2021年10月11日 | 読書
 こんな昭和臭のする本は久しぶりに読んだ。昭和62年発刊なのだから当然なのだが、「対談」中心の構成で相手の13人中6人ぐらいは故人だということがあるかもしれない。いかにもというラインナップであり、それ以上に中島みゆきの語り口が最近(といっても平成期だが)のように洗練されておらず、生々しい。



『片想い』(中島みゆき  新潮文庫)


 所ジョージを皮切りに、根津甚八、勝新太郎といった役者、吉行淳之介、高橋三千綱、村上龍といった作家の面々。誰と話しても淡々と本音を吐露していく。松任谷由実との対談は今となっては貴重ではないか。この二人が三十数年トップに君臨するという重み…残念ながら感じない。ただそう時代が流れた事実がある。


 村松友視の対談で面白いことを語っている。「ツカサ用の詞とテラ用の詩は違えて書くようになりました」これは、単に音を乗せる乗せないという区分ではなく、「自分でしゃべりたいことと、人に聞かせたいことは別物」といった姿勢である。他人の書いた詩をけして歌わない(歌えない)という歌い手の核ではないか。


 聴き手の立場では別のとらえ方もある。作家三田誠広が「他の歌手が歌う曲に惹かれる」と書いていて、自分も似ているかなと感じた。三田はその訳を「『商品』としてまとめられ、情念がストレートに噴出しないぶんだけ、かえってじわじわと、永く心に残る」と記す。真のファンはその情念こそ魅力と言うだろうが…。


 「豚の目」というエッセイが興味深い。「おだてりゃブタも木に登る」の喩えについてみゆきは、登ったのはオスで「メスブタはおだてても登らない」と書く。「ほめられたのでなく」という理由を見極めるメスの本能か。オスは「おだてとわかったらなお」登るとも。政治や行政の女性活躍推進がなぜ捗らないか、得心する。