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最も幸福で最低の生を生きる

2022年01月05日 | 雑記帳
 図書館のエントランス掲示は、「読めばいいのだ」と名づけ、少しごり押し感(笑)のある内容にしている。なかでも「詩文を読む」は、個人的に気になる作家等の詩や文章の一節を取り上げ、蔵書紹介へ結びつけている。今月は満を持して、穗村弘。実は歌集はほとんどないが、評論・エッセイが少し並べられている。


 穗村の『短歌の友人』もそのなかの一冊で、そのなかに「三つの時間」という章があり、「近代」「戦後」「今」について語っている文章がある。これは私たちが生きている時間とは、「近代(以降)」「戦後」「今」が同時進行しているという認識である。そのなかの「今」に関する記述のなかから、結論部を引用した。


我々の<今>には、
「もっと大きな意味で特別」なことがある。
それは、人類の終焉の世紀を生きるという意味である。
人類史上もっとも幸福で、
しかし心のレベルとしては最低の生を生き
種の最期に立ち会おうとしている
我々の今が<特異点>にならないはずがない。
我々は新しい歌を作らなくてはならない。
新しいオモチャのような歌を。





 穗村の書く文章はエッセイ等の軽快モードとは正反対に、評論ではぐんと重く圧し掛かってくる印象をうけることがある。「人類史上最も幸福で、しかし心のレベルとしては最低の生を生き…」という二律背反的であるが、ある意味痛快な表現に心がざわつく。「終焉」や「最期」はけして脅しではなく、認識である。


 「オモチャ」とは、ひと時もてあそぶ、喜びをもたらす対象と言ってよい。しかし穗村が「すべての変革とは、その瞬間を切り取れば常にオモチャ化とイコール」と記すように、例えば幼子が何かに夢中になっている刹那にこそ生の本質があり、表面上はどうあれ「創造」的な要素に結びつく。さて、大人はどうする。