すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「生産的怠慢」から、現実へ

2006年09月11日 | 雑記帳
 15年も前の学級通信を読み返していたら、こんな文章を書いていた。

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・・・・略・・・・・
 この夏最も心にしみた言葉がありました。
 「生産的怠慢」という言葉です。
 その中身として次のようなことがあるそうです。
 「指示されない読書」「中断されない思考」「目的のない会話」
 …私たちはともすれば速効性(すぐ効き目が表れるというようなこと)を
求めて行動しがちで・・・・略
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 この部分を読み、ふと今読んでいる『児童心理』誌のインタビューが思い浮かんできた。
 内田樹氏(神戸女学院大学教授)は、
「今の子どもたち、若者たちを見て、どう思われますか」と訊かれて
こんなふうにきりだした。

今の若い人たちは、何かをしなさいと言われたときに、
かならず「それをするとどんなメリットがあるんですか」と聞いてきます。


 そんな大学生、社会人の実態をこんなふうに語っている。

自分がこれだけ労力を割いたのだから、
それにふさわしい見返りを「私にわかるかたち」で戻してほしいという
「等価交換」の考え、経済合理性が
徹底して刷り込まれているのだなと思います。


 15年前の自分が書いた文章には、いたらなさが十分感じ取れ
自分も「刷り込んだ」一人ではなかったのか、と少し暗い気持ちになった。

 そして、改めてこのインタビューを読むと、
「経済的合理性」に絡んだもっとズシンとくるようなことが書かれてある。
 
 もうちょっと読み込んでみたい。

「耳のことば」を取り戻す

2006年09月10日 | 雑記帳
必要があって、教育雑誌等を読み返していたら
外山滋比古氏の書いた『児童心理』4月号(金子書房)の冒頭論文に改めて惹きつけられた。
 ページの隅を折り返しているし、初めて読んだ折も印象付けられたことを思い起こした。

 『「子どもにかける言葉」を考える』という題で、
絶対語感のことから、親や教師の話し方の重要性について述べている文章である。

 特に「目のことば」「耳のことば」という字句のインパクトが強かった。
 目のことば、つまり文字ばかりをありがたがってきた人間
そして印刷、活字文化によって言語は衰弱したのではないか、という危惧を表している。
 「声をきかせる大切さ」「『聴ける』ようなしつけ」そして「話し方」について貴重な提言をなされている。

 以前も「耳の鍛え」に関して考えていることを書くには書いたが
自分自身のことを振り返ると、どうにも視覚的なものに頼っている現状である。
 集会時に話すときも、意識としては常に「モノ」であったり「掲示文」であったりする。
 話に惹きつけるための方法ではあるが、やはりその前に「話し方」にもっと注意を払うべきだろう。

 では、そこに原則などはないのだろうか。

 外山教授の論文に、「母乳語」という説が載っている。
母親が乳児幼児に話しかける重要性を説くもので、日本では注目されないがアメリカで似たような考えが支持されているという。
 その母乳語の原則は、こうである。

まず「繰り返す」、そして「少し高い声」、三番目に「適当な抑揚
四番目が「ゆっくり話す」最後に「顔を見て、ほほえんで

 これは、そのままそっくり全体で話をする場合にも適用できるのではないか、と考えた。
(しかし外山説だと、男はエストロゲンに恵まれないのでこうした言葉は難しい、とのことである)

 いずれにしろ、聞く側があまりにも飛びつきやすい視覚情報のランクを下げ
聴覚で攻めてみるためには、それなりの準備や心構えが必要であろう。

 「聡明」という言葉の「聡」は耳の理解力、「明」は目の理解力という。
 「聡」を先に出した古人の知恵を、現代人に呼び戻したいという外山教授の論に深く感じ入った。

「普通に育てる」ということは…

2006年09月08日 | 教育ノート
学区内の主要道路の両脇数Kmにわたって、コスモスの花が咲き揃う季節も間近である。
6月中旬に子どもたちも出て苗植えをした。
ずっと以前から地域のシンボルとしてコスモスを植え、「コスモスライン」と名づけられている。
話材と思って調べたコスモスだったが、いろいろと興味深いこともあったので学校報でも紹介した。



 全校集会でのお話のために、「コスモス」のことを調べていたら、「コスモスの花びらは8枚のように見えるが、実は中の黄色い粒々も一つ一つが花である。そして花びらのように見えるのは中の粒の進化したもので、生き残るための虫に対するアピールである」こと、それから「メキシコの高地が原産のため、強風や乾燥から身を守るために、葉が細くなっている」ことがわかりました。
 改めて、植物の環境に対する適応性に感心させられました。

 本校の教育目標「やさしく たくましい コスモスの子」の、「コスモス」は「地域のシンボル」としての使い方には違いないでしょうが、植物としてのコスモスのことを知ると、また別の思いも浮かんできます。
 「秋桜」という和名がつくほどの美しさがやさしさにつながり、風や乾燥に負けない強さがたくましさにつながるということです。特に、ちょっとぐらいの風でぐらつかず、いつも「水」を与えられなくても自分で踏ん張れることは、子どもたちにぜひとも身につけてほしい力です。
 始業式の挨拶の中でも「つらくてもがんばる」ということを取り上げました。様々なモノが発達しなかった昔なら、そういう力は自然に育つ環境と言えたかもしれませんが、今はよほど意識しないと難しくなりました。

 コスモスの話の最後に「世界一大きなコスモス」のことを紹介しました。高さはなんと3m48cm、花の直径は12cmあるそうでギネスブックにも掲載されています。
 実はこの花は日本で育てられていて、育てた方に方法を聞いてみると、「普通に育てること」という返答があったそうです。
 「普通」というのはなかなか深い言葉だなあ、と思わされます。
 大きく伸ばすために「必要のないものはばっさりと切り、余計なものは与えずに、肝心なところで支える」…そんなイメージでしょうか。
 まさしく、子育てにも通じる考え方だなあと納得しました。(9/7)

縷述~「つながる授業」 その5

2006年09月07日 | 教育ノート
 実践のヒントになるものを、と考えて書き出したはいいが
書いてからこの表現でいいかなあと思うことはしばしばある。
 今回の「発言の仕方」という言葉も、どうも曖昧だ。
結局吟味が足りないということなのだが、
まあ不備であっても発信を続けていけばこそ、議論になったり付加があったり修正されたり、
そういうことが可能になるはずだ。あまり気負わずに書いていきたい。



 前回、二学期に教室の中で重視したいこととして、次の二つを掲げてみました。

 ① 声に出して読むことを重視する    ② 発言の仕方を教える

 ②に関して考えてみます。
 「音声言語指導」の重視が叫ばれだしたのは90年代の初めでした。それが実を結んでいるのかどうか、明確なデータは出ていないように思うのですが、若者対象のアンケートなどによるといまだに「話す方法を教えてもらっていない」と返答する率が高いという話を聞いたことがあります。振り返ってみると、ずいぶんと強調してきているようにも思うのですが、どのあたりに問題点があるのでしょうか。専門的な分析を知りたい気がします。

 さて、「発言の仕方」といったときに、よく教室前に掲示している「話型」が一つあると思います。「結論を言う」「理由付け」「付けたし」等々、いくつかのバリェーションがあるようです。掲示しておくメリットは十分あると思いますが、マンネリにならないように気をつけたいものです。

 発言、発表の仕方を教えようとするとき、指導の多くは次の二つに分かれるはずです。

 ●教師がモデルを示したり、テキストを使ったりして、その型を使わせ、慣れさせていく
 ●ある子どもの話し方を取り上げて、そのよさを認め、全体に広げる


 どちらも大切なことであり、両輪で進み効果を上げていくものだと思います。前者は国語の教科書でも取り上げられていることですが、時間は短くても頻度を上げていく必要があると思います。後者は、「教師の聞き耳」がとても大切ですし、意識的にならなければいけないことです。

 この双方をつなぐような形で、発言力を高めるために効果的と言えるのは、「つなぎことば」ではないでしょうか。つまり、子どもが使ったつなぎ言葉を取り上げカード化したりして、様々な場面に活用させることです。
 では、どんなつなぎ言葉が有効になるのでしょう。

「外からの知」を求めて

2006年09月05日 | 雑記帳
 職場に届いたあるシンポジウムの記録を読んでいたら、こんな言葉にめぐりあった。

いわゆる管理者としては、一番簡単な方法があります。
元気を出す方法は「先進校とか、いろいろな名人が授業されている学校に行ってこい」と言う。これだけでよいのです。そのために管理者は何をすべきかというと、いわゆる外部資金をとって、先生方を行かせることです。それが一番、元気が出るし、授業改善にも役立ちます。
だから、いわゆるその先生方の内部だけじゃなくて、外へ対しての知を求めるという姿が非常に大事だと思います。それだけです。


 角屋重樹氏(広島大学大学院)の発言である。氏は現在同大附属中・高校の校長も併任しているという。

 「新しい教育課程と『豊かな学び』」と題されたそのシンポジウムは、中央教育審議会の審議経過や答申を軸に各論者が話を進めたが、フロアーにマイクを向けた時、現場の問題の一つとして、「教師の元気のなさ」が取り上げられ、それに答える形で角屋氏が先陣をきって発言した。

 元文科省教科調査官の発言だからということでもないが、非常に心強い。
 様々な「外圧」に対してひきこもり気味?の教員が、元気を得るために、「外からの知」は大きな刺激となり、実践を支える学びを作っていくはずである。


 さて、年度当初から実現したいと思って、職場での話を詰めてきたことがある。
 先駆的な実践者や名人を本校に招いての研修会である。
 しかも、四ヶ月連続の計画を立ててみた。

 スタートの今月は、成田雅樹先生(秋田大学助教授)。漢字指導、作文指導に造詣が深く、現場経験も豊富である。
 10月は上條晴夫先生(東北福祉大学助教授)。授業づくりネットワーク代表である。
 11月は野口芳宏先生。我が師と仰ぐ国語科指導の名人である。
 そして最後は、隣県岩手から佐藤正寿先生(奥州市立水沢小教諭)。教材開発、IT活用等で全国的に名高いバリバリの実践家である。

 どの方々とも多少の交流、面識があり、お忙しいところを無理を言ってきていただくことになった。
 児童対象の授業と講話等をセットにした形で進める予定である。
 ベテラン、中堅の揃う本校職員にとってもいい刺激になるだろう。
 元気さは十分にあるのだが、さらに元気になってもらえれば嬉しい。

 今になって、我ながら実に贅沢な研修会を企画したと思っている。
 やはり一番待ち遠しいのは、元気でなくなっている自分か…。


※あくまで校内研修会として企画しましたが、若干名の受入は可能です。
 関心がある方は、沼澤まで下記HPよりメールでお問い合わせください。

http://www.h3.dion.ne.jp/~spring21/

教育の国の人だから…

2006年09月04日 | 読書
 9月1日夜のテレビニュース、少し注目して画面を見入った。
 次期自民党総裁候補として名乗りを挙げた安倍氏のことばである。
 重点とする公約を三つ掲げた後に、
「何を一番に?」という番組のキャスターに、どう返答するか。

 「教育」、のことばが出た。

 案の定である。
 国民的人気の高さを基盤として出馬する候補としては当然なのかもしれない。


 『日本を滅ぼす教育論議』(岡本薫著 講談社現代新書)という本に
日本人の現状が、「『教育教』の信者」と題され、次のように論じられている。

A 教育が理屈抜きで「好き」
B 教育の目的を「心」や「人格」に置く
C 教育について「平等」を求める


 安倍氏の所信表明は、「教育好き」の日本人にとってインパクトがあるだろう。
 また、内容としてBが核をなしていることは、読んでもいないのだがその著書『美しい国』という題名一つで想像がつく。

 ところで、岡本薫氏は、こうした教育観によって生じた現象として指摘されていると次のことを挙げた。

①学校に期待される役割が極めて大きい
②学校教育への投資が大きい
③教員の経済的・社会的地位が高い
④教育が経済問題でなく政治問題


 他国との比較も出されていて確かにその通りだと思うが、もう一つ確かなことがある。
 これは①から④、少なくても③までは今明らかに低下傾向だということである。
大局的な見方をすれば、それは規制緩和であり、自由化といえるのかもしれない。だから、逆に見ていくと、上記のBやCは崩れかかってきているとも考えられるのではないか。

 とちょっかいを出したい箇所もあるにせよ、刺激的な論述が繰り広げられている本である。
 岡本氏の単行本を以前読んだときも、その発想と明快な論理に驚いたことがある。今回の新書も納得させられる部分が多く、フムフムと最後章まで読み通した。
 しかし結局「ではどうする」といった視点の提示がないので、欲求不満を抱えたままの読了となってしまった。

 「おわりに」で、岡本氏は書いている。

日本人はそろそろ、これまで正面からの議論を避けてきた「憲法ルール」と「日本文化」の矛盾や、最近の「多様化・個性化・自由化」等の動きと「日本文化」との矛盾に気づき、将来の日本で「何を残し、何を変えるのか」という「選択」を、真剣に考え始めるべきだろう。


 確かにその通りであるが、傍観者的な書きぶりに不満も残る。
 岡本氏に言わせれば、それは自分の任でないということになるのだろうが、ここらあたりの認識から抜けきれないのも日本人読者なのである。文科省の課長という要職にあった人が、課題を提示しただけで済むのかという気もする。
 地上戦の我々には手が届かないのだから…。

 そしてまた、「日本は、『選択』の国でなく、『育てる』国である」と、どこかで聞いたフレーズも唐突に思い浮かぶ。
 だから「あれもこれも」で進歩がないのだろうか。
 八百万の神の国だものね。

いちばん進んだ人をつくる学校

2006年09月03日 | 雑記帳
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学校というところはいちばん遅れてしまったなあ、いちばん進んだ人をつくるためにあるはずの学校がいちばん遅れてしまったなあ、とつくづく思います。
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 『新編 教えるということ』(大村はま著 ちくま学芸文庫)の一節である。

 これは、1970年の富山県小学校新規採用者研修での講演記録とある。
 学校での指導に進歩がなく「教える場」でなく「検査場」と化しているのではないかという危惧を語っている場面である。

 三十数年前と今の状況の違いはあるにしろ、かみ締めてみるに値する言葉だと感じた。
 社会と学校の関係、教員の意識、設備や管理等々、深く掘り下げてみれば様々な視点から検討できるような気もする。
 しかし、一番肝心なことは、次のことであるはずだ。

 いちばん進んだ人をつくる


 「いちばん進んだ人」は、未来に生きるという形式的なとらえではなく、どのように生きるかという意味を含んだものでなければならない。
 私たちを支えている「法」や「規則」などを踏まえることはもちろん必要だろう。
 しかしもっと肝心なのは、「進んだ人」のイメージをしっかり持っているかどうえかである。
 
 国際化や情報化が押し寄せ、少子化、高齢化や地域コミュニティの問題があり、環境問題があり…
 はっきりと見えているのは「不透明である」という笑えない現実である。
 
 そう考えてくると「進んだ人」のイメージとは、案外シンプルなものでしかない気がしてくる。
 その点に関しての合意ができているか、形だけでなくある程度の筋道ができあがっているか…
 かなり、疑問が残る。
 
 「世の中の進んだもの」が邪魔しているんじゃないか。
 

できることを、ゴシゴシと洗い出す

2006年09月01日 | 雑記帳
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秋に予定されている教育実習で、何ができて何ができないのか、できないことは何かで補えるのか、すべて洗い出すつもりです。
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 力強い言葉である。
教員免許取得、そして小学校教員を目指すある一人の若者の文章である。

といっても、もちろん無名の人ではない。

 あの、乙武洋匡氏である。

 乙武氏がスポーツライターから教員へ転身しようという考えを持ったことは、以前何かで聞いたことがあった。
 今回『日経アソシエ』誌のインタビューも、興味深く読むことができた。
 「教育」の世界が自己を生かせるのではないかという気持ちを持ってのチャレンジであることが、よく伝わってきた。
 ある面では、藤原和博氏の場合と共通点があるかもしれない。
 
 しかし、今回彼が目指しているのは、小学校の学級担任。
 言い方は変だが「現場中の現場」「最前線」ともいうべき職である。
 身体的なハンディと仕事内容について尋ねられたときの返答が、上の言葉であった。

 その言葉の重みを、彼の将来と結びつけることなど私には到底不可能であるが
(教育界への刺激は多いに結構、しかし何かに利用されないようにという下世話な心配もあり…)
それはともかく、今自分たちの目の前にある仕事を問い直してみるには、実にストレートな響きがあると感じた。

 何ができて何ができないのか、できないことは何かで補えるのか


 身体的なハンディがあれば、それは見えやすいと言うのか。
 いや、それだけではあるまい。
 
 できることはたくさんあるのだが、その効果に対して鈍感で、自ら惰性的な動きに慣れてしまい、結局見逃してしまっていることのいかに多いことか…。

 もう一度、ゴシゴシと、できることを洗い出さなければ。