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「耳のことば」を取り戻す

2006年09月10日 | 雑記帳
必要があって、教育雑誌等を読み返していたら
外山滋比古氏の書いた『児童心理』4月号(金子書房)の冒頭論文に改めて惹きつけられた。
 ページの隅を折り返しているし、初めて読んだ折も印象付けられたことを思い起こした。

 『「子どもにかける言葉」を考える』という題で、
絶対語感のことから、親や教師の話し方の重要性について述べている文章である。

 特に「目のことば」「耳のことば」という字句のインパクトが強かった。
 目のことば、つまり文字ばかりをありがたがってきた人間
そして印刷、活字文化によって言語は衰弱したのではないか、という危惧を表している。
 「声をきかせる大切さ」「『聴ける』ようなしつけ」そして「話し方」について貴重な提言をなされている。

 以前も「耳の鍛え」に関して考えていることを書くには書いたが
自分自身のことを振り返ると、どうにも視覚的なものに頼っている現状である。
 集会時に話すときも、意識としては常に「モノ」であったり「掲示文」であったりする。
 話に惹きつけるための方法ではあるが、やはりその前に「話し方」にもっと注意を払うべきだろう。

 では、そこに原則などはないのだろうか。

 外山教授の論文に、「母乳語」という説が載っている。
母親が乳児幼児に話しかける重要性を説くもので、日本では注目されないがアメリカで似たような考えが支持されているという。
 その母乳語の原則は、こうである。

まず「繰り返す」、そして「少し高い声」、三番目に「適当な抑揚
四番目が「ゆっくり話す」最後に「顔を見て、ほほえんで

 これは、そのままそっくり全体で話をする場合にも適用できるのではないか、と考えた。
(しかし外山説だと、男はエストロゲンに恵まれないのでこうした言葉は難しい、とのことである)

 いずれにしろ、聞く側があまりにも飛びつきやすい視覚情報のランクを下げ
聴覚で攻めてみるためには、それなりの準備や心構えが必要であろう。

 「聡明」という言葉の「聡」は耳の理解力、「明」は目の理解力という。
 「聡」を先に出した古人の知恵を、現代人に呼び戻したいという外山教授の論に深く感じ入った。