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アニマドールの言葉は…

2006年09月13日 | 雑記帳
 「読書へのアニマシオン」が日本に入ってきた頃からの推進者の一人である黒木秀子氏の、実演と講話を拝見する機会があった。

 「アニマシオン」という言葉はある程度普及したが、実際にアニマドールとして多くのキャリアがある方は近隣にいないので、屈指の存在といってもいいだろう黒木氏の実演は大変興味深かった。手馴れた進め方であったし、細かい部分にもアニマシオンに賭ける熱がよく伝わってきた。

 気にかかる言葉があった。

 読書へのアニマシオンは、読書ゲームとは違う

 
 講話の冒頭に、かなり強い口調で言い切った。
 質問しようと思ったが、聴衆に少し混乱を招くかもしれないと思い、控えた。
 「読書(へ)のアニマシオン」自体が学習ゲームの一類という見方もあり、黒木氏本人も「学習ゲーム最前線」というテーマで、アニマシオンを紹介した連載を書いていたこともあった。モンセラット氏の著書の中にも「作戦」と同義としてゲームという言葉が使われている。
 従って、黒木氏の言う「(読書)ゲーム」の定義がはっきりしないままであるが、今日の実演や講話から感じ取ったことを踏まえて、黒木氏の言葉の自分なりの解釈を書いてみたい。

 「ゲーム」の要素を、競争であり、勝敗であり、正解があり、偶発性が高いととらえてみる。
 そう考えると、「読書へのアニマシオン」とは大きな違いが出てくる。少なくても、今日の実演はそれを物語っている。
 競争させないし、勝敗をつけたりしない。クイズ的な問いであるが、誤っていてもそれを認めていく。他の子からの正答を出させるにしても、了解を求め、それを絶対視しない。教師が、正しい読み取りを強調していない。つまりはひたすらに「引き出す」ことに終始する。
 「読む力」を求めてはいるが、興味付けを重視し、長いスタンスで考えていることがわかる。しかし、それはかなり計画的な「作戦」と、目標に照らし合わせた言葉かけによって進められる。
 特に、収束的思考を求める第一段階の「注意」ということをかなり意図的に進めていることが見てとれた。
 絵だけでなく、登場人物の表記にこだわったりするのは最たるものだろう。

 「読書へのアニマシオン」は魅力ある読書推進運動だと思う。
 しかし学校教育への導入には、課題が多数ある。「金」「人」「位置づけ」、そして「参加の自由」という原則をどう学校の中に滑り込ませるかというすり合わせも難しい。
 「アニマシオン的手法」なら十分に可能だろうが、本当に取り組むとすれば覚悟がいるなあ、と改めて思わされた研修会だった。