すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「羅針盤としての物語」があったら

2006年10月12日 | 雑記帳
 「いじめだけが自殺の要因ではなかった」

と話した校長は、記者から「では他の要因は?」と尋ねられ
そのまま口を噤み、うつむいてしまった。
結果、その言葉は「一般論」となり、後味の悪さだけが残った。

滝川市の小6女児自殺に関連する報道で垣間見た場面である。

校長は、何と言いたかったのか…
言うべき言葉はきちんとあったのか…
それは今となってはわからないが、肝心なことは
そこに関わった人々が、自分の問題としてとらえることだと思う。
むろん、「責任」は問われなければいけないが
その前に、その子やその学校と関わった全ての人が
真剣に自分がするべきことを考えるべきであり
一番の労力は、そこにつぎ込まれなければならない。

 羅針盤としての物語

 読み進めていた『幸福に驚く力』(かもがわ出版)で
著者の清水真砂子さんは、そんな言葉を使った。
 その時ふと、亡くなった女児のことを想像した。

 この子はどんな「物語」を読んできたのだろうか。

 生きている現実は確かに「物語」で、学校やコマーシャルが植えつけることは大きい。
 しかし、また本や映画などが及ぼす力もまた小さくないだろう。
 
 生きることを肯定的にとらえるのが、児童文学の一つの特徴だと言う。
 多様な「物語」が、自分の中に蓄えられていただろうか。
 いや多様でなくても、
その子が波の高い海の上でつかまっていられる棒切れのようなもの一つでもあったら…
 そんなことを想像する。

 一冊の本がそんな役割をする、と断言できるわけもないのだが
そこに労力を使うことも無駄ではないはずである。

『日本の教師に伝えたいこと』を受けとめる

2006年10月08日 | 読書
『日本の教師に伝えたいこと』(大村はま著 ちくま学芸文庫)を読んでいる。

「ひとりひとりをとらえる」と題された文章の中に、こんな一節がある。

教師が聞き出すのではなくて、子どもから問わず語りに出てきたことばのなかにしか、子どもの真実・本心は読めないと思います。

 心に留めておきたい言葉だ。

 小学校でも個人面談、面接と称して担任と話し合う機会を持つ学校が増えてきた。
 勤務校でも行われているし、それはもちろん結構なことだと思う。
 しかし、これには二つの点で気をつけなければならないことがある。

 一つは、大村先生も書いているが、「子どもの話す力は十分ではない」という事実である。
 本心がはっきりしているかどうかも微妙なのが子どもだろうし、明確に表現する力が低いのは当然だろう。

 そしてもう一つは、そうした計画的な活動に追われて、子どもと接する時間が減っていく、教師の心に余裕がなくなる危険性があるということである。

子どもの口を、自然にひらかせる秘訣、それには、まず教師の方がたくさん話をすることです。

 授業の場では「言葉を削ること」が命題の一つではあるが、それ以外の場面では積極的に話しかける(それは全体にも、個別にも、休み時間も、放課後も)教師の姿が、子どもが話し出すための大きな誘いかけとなるのである。

 そうした姿がきわめて教育的な行為であることに、自覚的にならなければならない。

学校文化こそが…

2006年10月06日 | 雑記帳
 宮城教育大学の学長である高橋孝助先生の講演を拝聴した。
 「教員養成の今」と題されたお話の中身は、今大学が置かれている財政的な実情から教員養成大学の持つ根深い内部対立の話まで広範囲にわたるものだった。
 その中で先生が何度となく強調され、私自身も深く印象に残ったのは次のことである。

 評価主義と学校文化

 大学はもちろん義務教育の公立校まで押し寄せている「評価の波」は、私の住む地方でもかなり高い。
 今進められている評価制度がどうなのかという判断は難しいところだが、現実には受け止めざるを得ないし、その制度が少しでも役立つように努めるのが現場の責務だと心得ている。

 しかし、確かに危惧されることはある。
 その一つに、制度(いやそうした雰囲気なのかもしれないが)に押しつぶされそうな教員の存在があるだろう。
 教員養成大学いわば教員の供給者のトップとして、高橋先生は初任者の動向にも当然目が向いていたはずだ。
 そして、このようなことを語られた。

 校長や教頭がいいと、指導力の乏しい初任者でも大丈夫だ。それは職場に高めあう雰囲気があるからだ。それが学校文化であり、初任者も伸びていく

 管理職が職員の意見を受けとめ、それを職場に振って話し合う…そうした態勢が、評価主義を乗り越えられるはずと仰った。
 具体的な場面でどんな言動になるのか、かなり多岐にわたっているが真剣に考えなければならない問題だ。

 「学校文化」といったとき、従来のような横並びの精神が色濃く残ると思うが、それはどの場面で発揮するべきことなのか、逆にそうでない関係性を保たなければならないのはどこなのか、はっきり見分けなくてはならない。

 高橋先生が、「スクールリーダー」というお話をされたときにこのようなことを言われた。

  スクールリーダーは、行政のテクニックやコントロールのテクニックが優れているからなれるものではない。授業力がない人は駄目である

 これは象徴的であると思う。
 管理職とスクールリーダーが同じとは限らないが、授業こそが学校教育の中核であり、それに向って討論していく態勢を築く中心的人物がいない限り、評価はきわめて表面的で形式的なことに左右されるだろう。
 そうして、そんなことが続く学校という場は、子どもたちを蝕んでいくに違いない。

 学校文化の維持?再興?創造?が、子どもたちの成長を保障する。

数十秒の積み重ねがもたらす

2006年10月05日 | 教育ノート
校内で漢字指導についての研修会を開いたので
それに絡んで、親に対してもちょっとした呼びかけをと思い、書いてみた。
家庭学習の中でも最もポピュラーな漢字練習へ親としてどう接するか
ほんの少しでも気にとめてもらえたらありがたい。



 以前勤めていた学校で、職員と保護者の方々を対象に「漢字」についてお話をしたことがありました。準備のためにいくつか調べたのですが、結構驚くことも出てきました。
 例えば、漢字発祥の地である中国の上海大学附属小学校では、小学校に入学して三ヶ月で1500字の読みと意味をマスターすることや、今の日本のように一つの漢字の読み書きを一緒に習うのは歴史的に異例であることなどです。

 パソコン等が普及し、漢字の習得に対する考え方も徐々に変化してきているのですが、「字を覚える(読める・書ける)」ことは、教育として基礎中の基礎ですし、脳の発達とも大きく関わりあってくるのは間違いないはずです。
 今までの指導法のよさを踏まえながら、社会的変化にも対応していくことが必要でしょう。
 今回の研修でも、「漢字の『露出』を多くする」という項目がありました。たくさんの漢字に触れ、読みに慣れ、意味に興味を持ったりすることを、教科書以外の場でも考えていきたいと思いました。

 とは言っても、漢字学習の基本は繰り返しにあります。
 そして「書き」の練習は筆順を唱えながら指で書くことが習得の原則です。
 ご家庭で練習する場合も、結果(ノート)を見てあげることも大切ですが、「指で書いてごらん」と言って一日に二つでも三つでも確かめる場を続けてやれば、効果的ではないでしょうか。
 ほんの数十秒、数分の積み重ねがもたらす「学び」は結構大きいかもしれません。(10/3)

漢字指導を考え直してみると

2006年10月04日 | 雑記帳
 成田雅樹先生(秋田大学助教授)を迎えての校内研修会を持った。
 テーマは「漢字指導」である。
 成田先生は、総合初等教育研究所が実施した全国的な調査に関わっておられ
それをもとにした指導法等についての図書などにも執筆しておられる方だ。
 4年生対象とした提案授業、そして講話、協議といった流れで
半日、漢字指導についてあれこれと考えることができた。

 参加した職員の「学び」も含めて、これから少し詳しくまとめたいと思っているが
個人的に印象に残ったことをいくつか記したい。

 学校教育における漢字指導の課題を考えてみると、おそらくこの二つは上位に挙げられると思う。

○漢字の指導の配列   ○習得の悪い子に対する指導

 前者は、教科書にそった配列の指導ではたしてよいか、ということである。
「読み先習」や「漢字前倒し学習」なども視野に入るだろう。
 後者は、軽度発達障害の子なども含めて、漢字指導全体のシステムや個別指導のあり方などが関わってくるはずである。

 今回の講話や協議の中で、それらに対するいくつかの示唆を得たように思う。

 指導配列については、やはり漢字を量的にとらえておくことが大切だと感じた。
指導時数と指導字数の関係を明確にするということである。
覚えることに関しての個人差も含め、どういうシステムを使いどの程度の量が妥当なのかを自分なりに判断する必要があるだろう。
 文章の中で理解させていくために、教科書単元利用があると思うのだが、そこをクリアできれば「前倒し学習」は復習を効果的に行えるので、習得のためには十分に検討されてよいはずだ。

 漢字が苦手な子に対するアプローチで、今回なるほどと思ったのは
「間違った字」を消させないことの大切さである。
誤字を正解までのプロセスと考えていく姿勢である。
算数における計算間違いは消しゴムで消さない指導は徹底してきたつもりだが、漢字はそうでもなかった。
練習段階における間違いの癖もしっかり残しておくことで、改善のきっかけになるかもしれない。

 漢字は身近で日常的であるから、なんとなくドリル等に頼って指導しがちだが
指導の本質を踏まえなければ徹底はできないことを、今さらながら考えてしまう。

 つまり、教えるべきを教える、システムを作る、個人差への対応に手を尽くす、ということである。

「必殺技」に反応したとき

2006年10月01日 | 雑記帳
授業づくりネットワーク誌から
「子どもを誉めるわたしの必殺技」という特集に原稿依頼をメールでうけた時
私が思わず反応したのは「必殺技」という言葉だった。

誉めることが得意ではないことを重々承知していながらも
いくつかそうした技は持ち合わせているかなあと思えたので
OKの返信をしたのだけれど…

送られてきた特集企画書の趣旨を読むと
教師の「自己表現的言葉」という、いわゆる「受け」のイメージであるらしい。
「必殺技」に反応した私の印象は、明らかに「攻め」。
これは困った困ったと思案しながら、
半端な内容となったが、なんとか書き終えた。

それにしても、「必殺技」から生じたイメージ…
実は、ジャイアント馬場である。
NHK再放送番組で、インタビューに答えたG馬場の言葉が浮かんできた。

最初は空手チョップや16文キックが必殺技だったのだが
対戦相手の受身などが上手になってきて、
技も次々と大技化し変化してきた、という内容だった。
ショー的な意味合いを持つプロスポーツということが頭にありながらも
妙に納得させられた、意味深い言葉だと感じた。

私たちが、子どもに繰り出す様々な言葉や動き、表情を一つの技ととらえれば
お決まりのように「技にかかる」場合もあるのだが
やはり同じ技の繰り返しが何回も同じようにキマルとは限らない。
そういう面では、進化していかなければならない。

自分の技がどのように進化してきたか…
いくつか「必殺技」と呼べるものはあったのか…
そのことを振り返るのもまんざら悪くはないと思った。
(現役引退間近のような雰囲気だが)

今回、まとまった形で考える余裕もなかったが
昔の学級通信なども読み直してみたのは
まるでビデオでも視ているようで、楽しい時間だった。

そして「自分だけの必殺技」は何かの形で残したいと思った。