すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

75年前の生活改善

2010年12月12日 | 雑記帳
 『我が村』を改めてめくって、いくつかメモしておきたい。

 方言・訛語には以前から興味があったので、結構その類の本、冊子は集めているが、これほど古いのは初めてである。

 もう70年以上も経つので、かなり死語になりかけているはずだが、わあっ懐かしいと感じるということは、やはり自分の齢を考えると自然だろう。

 ただ、翻訳されたことば(標準語)の方に、意味不明の言葉が出てきて、それを広辞苑で調べる有様だ。
 たとえば、このページにある「御幣カツギ」「イザリ」は私の語彙にはなかった。



 意味を調べて考えてみると、やはりそういう行動、習慣がなくなっていることに改めて気づく。方言にあったということはかなり生活に密着したものだったろうと思うが、それがあっという間になくなっていったことは、同時に失われたものも多い。

「圖」も「ブロック・ダイヤグラム」と称された土地利用区分図から「気候圖」「肥沃土分布圖」と豊富だ。
最後に載っている、「生活改善圖」と称されたこれにはちょっと考えさせられた。



今の自分に当てはめてみると「其他」がほとんどを占める暮らしには、なんともはや…

幻の小学校を見つけて…

2010年12月12日 | 雑記帳
 めったにyahooでは検索することがないのだが、たまたま町内の小学校を調べようと、入れてみたらこんな画面が出てきて驚いた。

 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%BE%BD%E5%BE%8C%E7%94%BA+%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
 (さっそく削除、訂正されたようで、もうありません 2010.12.21記)

 存在しない学校の名前がある。
 学校統合が進んだので、もう廃校になった学校名があるのは、全国似たような状況だろうが、それにしても「貝沢小学校」とは…。

 本校(三輪小学校 http://miwasho.blog68.fc2.com/)住所に「貝沢」という名称があるからそうなったのだと思うが、それにしてもその名前はもう100年以上前にこの地にない。

 本校は明治35年に、「杉宮学校」「日盛学校」「貝沢学校」の三校統合によって生まれた。それぞれ距離的に離れている地区の民家などに設立された教場だったろう。
 「貝沢学校」は現在地から2キロ以上離れているお寺にあったものだ。

 そういえば、と先月に会議室で資料を探していたときに、実に貴重な冊子を発見した。
 現職員は誰ひとりその存在さえ知らなかったし、来校する地域の方々に見せてもいるが、一様に驚く方ばかりである。

 『我が村』(三輪小学校編)

 なんと昭和11年6月5日発行の奥付がある。
 発行者は時の校長(15代)の名が記されており、大曲の印刷所が使われている。写真なども随所に取り入れられているおよそ60ページのりっぱなものである。

 「序」を寄せている三輪村長によれば「郷土読本」という位置づけでおそらく児童の授業にも用いられたことと思う。
 「我が村の歴史」「村の現在」「村の活動」「私どもの学校」「お社とお寺」「私どもの」「私の家」という章立てで、最後に「村の方言・訛語」、そして巻末に付録という名で、様々な「圖」(図)が載せられている。

 この内容になかなか興味が惹かれて…と、いつのまにか「貝沢小学校」の中に入ったような気持ちで学習している自分に気づく。やはり幻の学校であったか。
 面白いと思った中味は次稿で。

 (結局、貝沢小学校は隣県沢内村にあることが判明。地図と住所が大きく異なるので、いつか削除されるのだろうか)

反芻してガツンと響く

2010年12月10日 | 雑記帳
 野口芳宏先生をお招きしての会が終わり、一週間が過ぎた。

 今回は結構長い時間をご一緒させていただき、その感想めいたことは翌日にこのブログにも書いた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/3913c0ee342e435a43cad0572768c6f7

 今週の仕事の一つとして、特別授業や講演の感想カードをまとめ、抜粋して学校報に載せる作業をした。
 参加していただいた多くの方に先生の素晴らしさに触れていただいたことがわかり、本当に嬉しかった。このあと、地区全戸配布となる学校報が今後の刺激になればと思っている。

 とひとまず、やれやれと腰を下ろした気分になって、ふと気づいたことがある。

 自分も聴いたはずの講演の感想はどうした…と。

 もちろん、その内容は何度も聴いたものではあるのだが、いつも先生のお話は新鮮であり、びっくりさせられたり、印象づけられたりする言葉がある。

 それを遅まきながら反芻してみる。

 もやし個性 

 「個性重視」批判の折に口にされた言葉である。
 現在のような個性重視のあり方によって育つ、ひ弱なイメージが見事に表されている。使える個性、役に立つ個性はどのようにして育てられるか、それはやはり一般性、妥当性に支えられた「常識」を教え、身につけさせることでしかない。

 コウコウキョウイク
 
 これだけを聴くと「高校教育」が普通だろう。
 先生だから「孝行教育」かな、と思う方もいるだろう。これでは部分正解である。
 おっしゃられたのは、「孝公教育」。あまりに「私」に傾きすぎた世の中に警鐘を鳴らす造語である。

 この二つ以上に印象深いのは、講演の最後に著書の紹介はなさったときのこと。
 かなり以前に出された『硬派・教育力の復権と強化』をお持ちになったのだが、これにまつわるエピソードを紹介された。
 教育委員任命の同意を得る議会で話題になったという。つまり体罰に関わる表現である。

 こんど改訂するときには、その部分を省きますよ。
 だから、これは野口の考えが入っている最後の本ですよ。
 
 とあっさり、にこやかに、そのように仰った。
 批判に屈するという意味ではなく、そういう立場にたった人間は表現に気を配る必要性を説かれたわけである。

 務めに正対する思いがガツンと響いてくる。
 まさに「私」よりも「公」という姿ではないか。

こりゃあ、つかえますぜえ

2010年12月08日 | 読書
 『もっと声に出して笑える日本語』(立川談四楼 光文社知恵の森文庫)

 面白い。
 「もっと」でわかるが、第二弾である。
 「もっと」のつかない本をアマゾンで注文しているのでもうすぐ届くだろう。楽しみである。

 いわば、落語のマクラのネタになりそうな、言い間違い、シャレ、流行語、名台詞、迷台詞、変な看板、珍回答…などなどが並べられている。

 まあ、いくつか前から知っているものもあったが、改めてその面白さに気づくこともできた。
 また、学級担任でもしていれば、クイズ的に出して楽しくウケルものも結構あるように思う。例えば

 「海海海海海」と書いてなんと読むか

 味噌汁のことをオミオツケというが、どう書くか

 かつて仙台藩の兵士は弱く「どんごり」と蔑まれた。その意味は?
 

 (正解は「あいうえお」「御御御付け」「大砲がドンとなると五里逃げたから」)

 どうだろう。
 意外だし、教材としての発展性もある気がする。解説をしていく時にさらに考えさせられる、別の問いにつながっていくという意味で…。

 ネタの数が豊富なので使えそうなのはいいが、使う場や使い方を考えないとなあ、ともうその気になっている。

初冬の頃の読書メモ②

2010年12月07日 | 読書
 先日少し引用した『メメント』(森達也 実業之日本社)
 
 著者に同世代として親近感を持ったことがあると以前書いたことがある。しかし、その仕事の範囲の広さや洞察には到底迫りきれない。
 とすれば自ずと身近な話題にくっつくわけだが、先日書いた「現代史の教育現場」のことに加えて、もう一つ書き留めておきたいのは「“規則をやぶる”自覚と陶酔」の章。
 ここで記された言葉は本当に共感できる。中味については立場上詳しく書かないけど(苦)。

 「品格」とか「凛々しい」とか「美しい」とか「気高い」とか、そんな語彙ばかりでは息がつまる。卑屈になってほしい。姑息な自分を体験してほしい。卑小な自分を体感してほしい。

 してはいけないことへの誘惑に勝てない自分を堂々と認めたり、居直ったりできないのは、心の底にある価値観、倫理観がまとも?と信じているからだろう。どこかでそういう教育があったからこそとも言える。
 それらが本当に根っこにあると気づくのは、おそらく反発し、挫折した末に湧きあがってくる時ではないだろうか。
 ただ法に背く行動を堂々と続けることによって感覚は麻痺する。自分であれ、他者であれ、それを崩れだと意識できる心の存在は常に問わなければ強度を失っていく。


 『途方に暮れて、人生論』(保坂和志 草思社) 

 芥川賞作家だそうな。著書が目に入ってくることはなかったが、出版社の小冊子で短いエッセイを読んだことはある。
 本書は雑誌やWeb上でのエッセイを編集したものらしいが、実に読ませる内容だった。程よく難しい言い回しなどもあり、読み返したくなる文章も多いという感じをもった。
 印象に残るこのフレーズ。

 「愛」は指で差し示すことができない。 

 何か哲学的のようにも思えるが、単純には言語理解のことである。
 「視覚を起源に持つものとそうでない抽象的な概念」という区別。時間が介在しなければ理解できない様々な言葉を、どう身につけさせていくかはとても興味深いことだなあ、と今さらながらに思う。
 繰り返し見る、唱える、経験する、表現する…としても、「それは愛か」と問われたら、どうしようもなく言い淀んでしまう自分がいる。
 ちなみに、この著者も同い年生まれ。

初冬の頃の読書メモ①

2010年12月06日 | 読書
 読書メモが滞っているが、本を読んでいないわけではない。
 なんか少し半端な(いや、ちょっとこの表現は違うなあ、「とらえどころのない」ような、とでも言えばいいだろうか)本を手にしているからだろうか。
 まあ、とりあえずは一言でも感想は残しておこうと思う。

 『オーロラマシーンに乗って』(明川哲也 河出書房新社) 

 知っている人は知っているドリアン助川である。
 雑誌ダカーポが休刊になってから、とんと御無沙汰だったが、奥付を見るとずいぶんと小説は書いているようだ。以前、何か一冊読んだような気もするが不確かだ。

 この本は短編が三つ。
 どういうジャンルといったらいいのか上手く表せないが、見方によってはファンタジーである。
 特に「草っ子と蜘蛛」は切ない。読み進むにつれて何か宮沢賢治の描くような世界を想像してしまった。
 空への空想を描く標題作も、ロボットが主人公の「ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼの丘」も、それに近い印象を感ずる


 『鮮度のある人生』(邱永漢 PHP)
 
 およそ違う世界に住んでいるという印象の著者ではあるが、以前文庫本を読んで、斬新な発想に刺激をうけたことがある。
 今回はなんと言っても「鮮度」というタイトル。
 
 同じことを続けていても鮮度は維持できない。結局、自分の鮮度を保ちたかったら、対象となることに鮮度を感じなければならないわけで、その意味では新しさに対する向き合い方になるのかなあ。
 かつて自分のキーワードが「発見」であったことを、本当に久しぶりに思い出した。


 『むかつく二人』(三谷幸喜 清水ミチコ  幻冬舎)
 
 この個人的に好きな二人の、悪口雑言、お互いの貶し合いが楽しい。
 自分を開示して人を愉快にさせるのはやはり才能だと思うが、その面で秀でていることはすぐにわかるだろう。

 三谷の何冊かこの類の本を読んでいるが、初めて知ってなるほどと思ったことがある。
 「返却期限」や「進行ルート」に対して脅迫観念を持っているので、図書館から本を借りること、水族館へ行くことが苦手であるという。
 これは、閉ざされた空間や時間の中で人から強制されることに大きな嫌悪を感じているということではないか。
 だから逆に三谷の書く脚本は舞台が閉ざされていて、そこで作家自身のイマジネーションを十二分に発揮しようとしているのかな…そんなふうに予想してみる。

贅沢で、濃密な時間だった

2010年12月04日 | 雑記帳
 野口芳宏先生をお招きして、PTA主催の会を持った。
 せっかくおいでいただくのだからと思い、午前中に、4年生対象の道徳授業をお願いした。

 物怖じしない?本校4年児童とのやりとりはなかなか見応えがあり、かつ楽しいものだった。
 様子はこちらで→ http://miwasho.blog68.fc2.com/blog-entry-381.html
(板書や主要な問いもわかります)

 先生の抱えている大きなテーマの一つに「利己・利他」という点があり、最終的にはそこに焦点化させていく流れだったが、時間的な配分があまり良くなかったと反省を口にされていた。

 私は失礼を承知でこんなことを訊いてみた。
 「小学校4年生では、他の人に何かをしてあげたことで幸せを感ずるという体験、経験がまだ足りないように思うのですが、授業を通してそれを実感させるというのは難しいことではないでしょうか。」

 先生は即座にこんなふうに返された。
 
 「実感というのはね、教師がそう思っているかどうかなんだよ」

 ああ、とまたここでも思う(こんな言葉を聴くとき、たいてい私はハンドルを握っている)。

 その言葉には、小手先の工夫などではけしてたどり着けない「授業の本質」がある。
 根本、根幹が揺るがなければ、いくら強い風で枝葉が落ちてもそこには、いつも新しく芽吹くものがある。不安定な天気の一日の中でそんなことも思い浮かんだ。

 今回は、先生に前日から秋田入りをしていただき、実に濃密な時間を過ごすことができた。
 すきま時間に私のデスクで原稿書きをしている姿を拝見できたり、日常の様々なことをお聞きできたり、実に贅沢で、濃密な時間となった。

リンゴの話で初登場

2010年12月02日 | 教育ノート
 学校ブログを続けてきて1年半。
 まずまず順調に更新を続けている。県内小学校更新率1位の座は強い学校!がいてなかなかとれないが、2位から5位圏内で推移しているようで正直嬉しい。励みになっていることは確かだ。

 様々な要素を考えて、原則として自分の撮った写真を使い、自分でアップしているが、どうしても不在のときなどは校内で撮ってくれた写真を使わせてもらうことにしている。

 昨日もそうだったわけだが…そんな事情もあり、1年半経過にして、なぜか「自分の顔」初登場ということになった。
 http://miwasho.blog68.fc2.com/blog-entry-378.html

 12月の全校集会である。
 今までも全校集会はあったが、児童中心に構成してきたので、今回のようなものはあまりなかった。つまり撮ってくれた他の写真が使いづらかったこともあり、自分を載せてしまったということだ。ちょっと気恥ずかしい。

 まあ、問題は話の中身になるわけで、これはなかなか良かったのではないかと自画自賛。
 もう10年ほど前に山の学校で話したネタをアレンジして、同僚に手伝ってもらいながらコンパクトに再構成してみた。

 「もっといい方法はないかとあれこれ考えてみる」ことの一つの意欲付けになればいいと思う。
 もっとも終わった後の子どもたちからは、「りんご、いいなあ」という声しか聞こえなかったりするけれど…。

「鍛える国語教室in花巻」ふり返り③

2010年12月01日 | 雑記帳
 最終講座『教師の品格を高める』…冒頭に野口先生はこのようなことをおっしゃった。

 (人間の言動の)見えていない部分が大きいことを、品格・風格があるという

 普通に考えるとそうした印象は可視の部分で判断しがちだが、「滲み出てくる」という言い方があることを考えると、確かに実体は内面を指している。
 だとすれば、内面を形づくる環境つまり出自や経験などによって左右されることは言うまでもない。

 今回は、要素の一つとして時間的な流れつまり自己における歴史認識の話である。
 それは個人的な歴史ではなく、個を取り巻く大きな意味での歴史が主たる対象だった。
 しかしまたそれは学習という個人の歴史抜きに語れないことも確かである。

 講座の中で野口先生はこう語られた。
「秩序が安定をもたらし、安定が安心をうむ。秩序が保たれるのは差別があるからだ」…先生でなければ到底広言できない言葉だからこそ、重みがある。
 その考えを、皇室を例に様々な資料を紹介しながら説明していく流れには、揺るぎない思想に裏打ちされていた。

 先日読み終えたばかりの『メメント』(森達也著 実業之日本社)に「現代史の教育現場とメディア」という章があり、そこで森は現代史を教えることを躊躇っている教師の多い現状に対し、「押し付けてよいのだ」と激励する。そして思想の多様性を認め、このような書き方をした。

 歴史の本質は史観だ。言い換えれば見方。つまりは主観。 

 一貫性を強調される教育現場の中では、ともすれば論争のある題材については避けて通る、少しボカシテしまうのが通例である。
 しかしそれでは結局のところ、拠るべきものがなく、非常に脆弱なままになってしまう。
 被害者面をするわけではないが、そんなふうにして自分の歴史認識も高まらなかったのか。

 野口先生の語る言葉が明確で力強いのは、主観がはっきりしているからであり、だからこそ伝わってくる。
 様々なことを知り、学ぶことは必要だ。しかし歴史において客観性、中立性はどこまでいっても幻想といえるだろう。
 だから、私は情報を語る人の強さに惹かれてしまう。
 
 「思う」ことが歴史なのだ 

 森のこの言葉に肯いてしまう。
 ただ心したいのは、その場で情感的に鵜呑みするのではなく、書き留めた言葉を反芻してみたり、自らに問いかけてみたりすることを忘れないことだ。

 品格つまり不可視の内面を形づくるのは、そういう作業ではないか。