すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「北の国から」本当の終わり

2021年04月03日 | 雑記帳
 昨朝のTVで加山雄三が病気から復帰という話題で、インタビューをうけていた。高齢でもあるし完全復活という印象はなかった。午後、田中邦衛の訃報が報道された。若大将シリーズの映画で、都会や大学に憧れた世代には何とも淋しい日となった。まして「北の国から」ファンを自称する者としてはやるせない。


 ドラマ撮影の舞台である富良野、麓郷には四度ほど足を運んだ。最初の頃はさほど観光地化されておらず、麓郷の道を歩いたこともあった。行く度に華やかになっていて、「それは五郎が望んだことではないなあ」と勝手に想像していた。唯一無二の個性が光る、という言い方は陳腐だが、あの役の代わりは誰もできない。


 連続ドラマが終了してから数年ごとにスペシャル版が作られ、兄妹の成長と変貌を目の当たりにする形は、このドラマが作り上げたのではないか。「倉本聰は、なぜ草太(岩城滉一役)を死なせたのか」とその意味を真剣に考えた時もある。「2002年遺言」での終了を惜しむ声に同調したのは、その問いが続いているからだ。



 多くの人が観て思い出が共通している楽しさもあった。カラオケで「北の国から」にまつわる曲を、と決めて仲間と歌い合った時代が懐かしい。尾崎豊の『I LOVE YOU』はもちろんだが、五郎が気に入っていた長渕剛の『西新宿の親父の唄』、それに『Love is over』(なんと森進一バージョン)も忘れられない持ち歌(笑)だ。


 さて、ドラマ上での五郎の遺言は、こう締め括られる。「金なんか望むな。倖せだけを見ろ。ここには何もないが自然だけはある。自然はお前らを死なない程度には充分毎年喰わしてくれる。自然から頂戴しろ。そして謙虚に、つつましく生きろ。」ああ、その声の主は本当に亡くなってしまった。本当に物語は終わった。

「まってる」も「まつ」も

2021年04月02日 | 絵本
 この絵本を知ったのはコロナ騒動が始まった頃。よく視聴している「小山薫堂 東京会議」という番組で、珍しく小山が朗読した。感染症拡大防止によって様々な制限がかけられた世相を意識してのことだろう。外国の絵本で小山自身が訳しているという情報は示されていたが、実際にはどんなものだろうと注文した。



 その時のことは「まってる。絵本が届く」と題づけて、記してあった。今、改めてこの絵本を開く。「まつ」ではなく「まってる」と訳したのは、ことばのリズム、響きを重視した選択に違いない。行為としては「待つ」ととらえていいはずだ。それにしても、この「待つ」という動詞の意味深さは今さらながら考えさせられる。


 手元の電子辞書によれば「人・物・時などが来ることや物事が実現することを望みながら、それまでの時を過ごす」が最初で、他に「期限をのばす」「成りゆきを見守る」などと記されている。自らの働きかけの有無はあまり重視されていない行為だ。ただ、それは表面上だけであり、内面の世界が多様なことはわかる。


 例えば教師なら「待つ」という重要さをどの程度認識しているかが、力量の差となって現れる。授業場面では子どものどんな答えであっても「受ける」という引き出しがあるかないかだ。生活指導であれば、その子自身が成長を実感できるまで寄り添えるかという覚悟だ。「待つ」の深度が、生き方を決めていくようだ。


 さて、一般的な表現として「そわそわして待つ」「どきどきして待つ」「ぼんやり待つ」などという形容もある。しかしこの絵本ではそうした修飾がいっさいなく、ただ「まってる」だけが貫かれる。だからこそ内面が想像できるし、展開にもリズムが生まれる。欧州人の創った世界には、独特の軽やかさも感じられる。


 ふと、2月に掲示した坂村真民の詩「待つ」を思い出した。これは達観というより諦念に近い気がする。昭和期日本人の典型と考えられるし、その血も流れている。今「じっと待つ」ことは時流に合うとは言い難い。しかしその先に見えているものが有るや無しや、そこが問われているのではないか。

待ってもむだなことがある
待ってもだめなこともある
待ってもむなしきことばかり
それでもわたしはじっと待つ 

瞳に二、三の石を探す

2021年04月01日 | 読書
 新年度が始まった。継続して図書館勤務となり、また様々な活動に携われることを幸せだなあとつくづく思う。自分の興味の大きな部分を支えている内容でもあるし、それ以上に広く深い世界でもある。今の恵まれた立場を生かしながら、どんな展開を作っていけばいいのか。この文庫を読みながら少し考えてみた。


『ライフワークの思想』(外山滋比古 ちくま文庫)


 4年ほど前に読んだメモを見直した。当時の教科書記載に関する話題とつなげた「島国考・鎖国」のことに目がいっていた。その時期は「隠居志願」的な意識があったのだが、それを批判的にとらえている冒頭の章「フィナーレの思想」を、あえてあまり見ないようにしていたのか。今回は、その部分が沁み入ってくる。


 人生の折り返し地点は既に過ぎ、ゴールを目指すときに、よきフィナーレが迎えられることほど幸せなことはない。その形は百人百様ではあろうが、個に埋没したような姿だとすれば、ちょっと悲しいという気がする。その意味で著者は「身を退く」という考え方を批判し、レースをあきらめない精神の高揚を説く。


 「隠居、隠遁の思想というのはフィナーレというものの充実感をいちじるしく削ぐ」さらに重ね「どこか人生を達観しているようで、“いさぎよさ”といったようなもので抑えられているのではないか」と語る。達観も勝負の美学的なものも無縁に過ごしていながら、都合よく自分に適応させていることを見透かされた。


 「ライフワーク」と称せるほどの中身がないのは十分承知している。ただ、身の周りにも何人か居る(またかつて居た)積極的な方々を見るにつけ、かく在りたい心を持続させて、少しでも社会に貢献できればいい。著者は「画竜点睛」の言葉を引いて、フィナーレに向かう心構えを、次のように語った。励まされる。

「われわれの人生においても、最後にそのわずかな二、三の石を置くと、今まで死んでいたと思われていた石ががぜん生きて、というすばらしい成果を挙げるかもしれない。」