すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

三年目にメモを見直す

2021年04月15日 | 教育ノート
 デスク周りの片づけをしていると、以前の資料が目に入ることがある。図書館勤めも三年目に入ったが、初年度には続けて研修機会があり、多くのことを学び、メモを残してあった。今までとは違う環境だったので新鮮に思えたのだろう。しかし、人は忘れやすい生き物で(と言い訳か)、いつの間にか散逸している。


 こうした公共施設にとって、昨年度からの特殊状況の影響はかなり大きく、すぐに踏み出せない点も多いが、そのメモの断片を見直し、改めてこの先を見据えたい。


 「図書館は、本を届ける仕事」…もちろん運送という意味ではない。「本を貸すではなく、借りていただく」…これは卑屈にとらえず、あくまでも税金の有効活用のためにPRを強めるという意味だろう。専門家が語る「多くの町では8割が利用しない」実態があり、この現状から一歩踏み出すことが求められている。


 「図書館自体が地域の活性化を目指すものではない」…おそらくは役割として下支えが本筋なのだと思う。法律の定める図書館の意義を改めて読み直すことで理解できる。しかし「社会教育施設」としての、機能のさせ方は待っているだけでは叶わないだろうし、自ずと人を引き込み、目を向けさせる動きが必要だ。


 今重きを置くのは、一つには町の「スケールメリット」を生かすことだ。他施設や団体との連携も見知っている顔でやれることの長所がある。もう一つは「アウトリーチ」という考え方を生かしたいと考えている。ハード面では困難が多いが、人的な面では小回りが利く。「本を地域の未来へつなぐ」ための仕事の幅は広い。



 これは昨春のお気に入り。町内の名所になりつつあるポイントだ。いいタイミングで撮れた。

驚くべき名著とM先生は書いた

2021年04月14日 | 絵本
 図書館ブログで続けている町広報の紹介(創刊から順に古い号のトピックスを取り上げている)のために、昭和53年頃の紙面を見ていたら、ある先輩教員が子育てに関する連載コーナーを書いていた。そこで、一つの本が薦められていた。文学や言語に関する造詣の深いM先生が、こんなふうに絶賛しているのだ。

「わずか44ページ。320円の薄い絵本で、読み終えるのに五分とかからないはずです。それでいて440ページ、3200円あたいもの本を読んだ気分にさせられるばかりか、50分も考えさせられてしまうという驚くべき名著です。」


『ものぐさトミー』(ベーン・デュボア文・絵 松岡享子 訳 岩波書店)


 俄然、興味が湧いた。検索してみると本館には2冊あり、古い方は閉架にあるが、第13刷は児童用の棚に収められていた。さっそく借りて読んでみた。



 「トミー・ナマケンボは、電気じかけの家に、すんでいます。」と始まる物語は、すべてがオートメーション化された家で過ごす、一人の子どもの様子が描かれる。初版が1966年であり、機械化文明への多分な皮肉が込められているのだろう。ある日、カミナリによって電柱が倒れ、電気が不通になり…という設定だ。


 M先生の意図は「家庭内の労働」「生産」に絡め、機械化が進むなかでの子育てに対する危惧だったに違いない。それから40年以上経った今でも十分に通用する警句でもある。当時に比べれば格段に機械化が進み、私たちが身体を使う機会は、かなり意識しないと益々減っていく。その心配は多くの人が口にするのだが…。


 もう一つ大きく見ると「身をまかせる」危険性も浮かび上がる。人間は願望や要求によって、様々なモノ・コトをこしらえてきたが、いつの間にかそれらに身をまかせ、あまり思考しなくなっているではないか。それは機械化だけでなく社会や制度、組織等にもあてはまる。このままでは…最終ページの結論を見よ!


桜待つ、逸る心

2021年04月13日 | 
 先日の夜、NHKBSで「生中継!一目千本、吉野の桜」という番組が放送された。今年の桜情報はある程度知っていたし、予想通りに盛りの過ぎた桜の姿だったし、一週間前は…といった映像が流れ、興味は半減した。もちろん、映像より本物であり、それを待てばいいのだが、なんとなく逸る気持ちがあり苦笑する。


 日本人と桜のつながりについては言い尽くされているが、「花といえば桜」を表すことがその象徴。「花見」の一語通りだ。手元に置いて時々見る『「歳時記」の真実』(石寒太)には、「さくら」の語源が記されていた。「『さくら』の『さ』は田の神の意、『くら』は、その依りどころ」つまり桜は「田の神の出現」なのだ。


 そう考えると、農耕社会と強く結びつく。しかし花を鑑賞するという文化が中国から伝わり、都を中心に「花見」が盛んになったそうで、西暦900年代には既に吉野山が桜の名所となっていたとされる。千年以上の時を超え、人の目と心を楽しませてくれる桜。よく言われるように「散る」美しさにも、人は共感する。


 写真を撮る者であれば、風物としての桜は見逃せない。全くの初心者からプロまで、ネットに挙げられている桜の写真はいったいどれほどあるのか。自分も写真中心のブログを設けていた時に、少しだけ載せている。役場のカレンダーに採用された一葉もある。せっかくカテゴリーにしたのだから、振り返ってみたい。



 今週末から、「今年の傑作」を目指して撮りはじめたい。自分自身で気分を盛り上げることが大事なので、データを見直しここにアップしてみよう。まずは、一昨年に撮った町内の川沿いの遊歩道の桜。これはお気に入りで、実は図書館のエントランスにこんな形で掲示した。人出と花粉に気をつけ今春も花を愛でたい。

劣化を憂いて逝った人

2021年04月12日 | 読書
 筆者の単著は読んでいない。しかし、様々な媒体でエッセイ等を目にしていて、自分より少し若いが、凄い知識だなあと一つの憧れを抱いていた。昨年急逝したときは驚いた。帯にあるように「稀代の時代観察者」という形容がぴったりだ。平成27年から令和2年冒頭までという区切りは偶然とはいえ出来過ぎている。


『最後の人声天語』(坪内祐三 文春新書)

 
 このコラム集の内容は、出版物関係や街の様子、それから大相撲、野球、映画等が中心になっている。都会在住者でなければピンとこない文章もあるが、同時代感覚はある程度共有できる。特に大相撲をめぐる話題は、続けざまに「事件」が起きていた頃で、それらの背景がくっきり浮かび上がってくるようだった。


 予言めいた書きぶりをしたいくつかの箇所が印象深い。2016年の10月号は、リオ五輪の頃に書かれていて、当時様々なものの「終わり」に思いを馳せていた筆者は、こう結んでいる。「だが果たして四年後、新しい時代に日本で五輪が開かれるのだろうか。私はリアリティを持ってその姿を想像することが出来ない。


 自身の死を想ったわけではないが、死後に新型コロナウィルスの感染拡大による五輪延期は見事に符合した。ただ、著者がそのように感じたのは、平成から令和へ向かう時期に、私たちが直面している膿のような様々な出来事ゆえではないだろうか。五輪でいえば、それに関わる不祥事は絶えず続いてきたではないか。


 約5年の「最後の」コラムで語られた核心を、読者の一人として受け止めれば、それは「人の劣化」に尽きる。それが取り上げられた政治の劣化、街並みの劣化、映像文化や社会運動の劣化の正体であろう。著者の大好きだった大相撲は、波乱に次ぐ波乱、力士の劣化も…。今生きていたら、どんな批評をするだろうか。

「文具」は先をいっていた

2021年04月11日 | 教育ノート
 今朝の地元紙一面に大きく載った記事にある、一つの語が気になった。いわゆるGIGAスクール構想により、小中学校の児童生徒にデジタル端末が行き渡ることについて、こんな見出しがついた。「新たな『文具』になるのか」…「文具」と使った意図はわかるが、素直に疑問を持ち、改めてこの語を辞書で調べてみる。


 電子辞書にある「広辞苑」「明鏡国語辞典」、ともに「文具=文房具」となっている。文房具とは「物を書くときに必要な道具」であり、そこに違いはない。ワープロに慣れた頃、「この筆記具は便利だなあ」と感激したことを忘れられない。ただ、同時にだんだんペンと紙では書けない心身に疑問が湧いた。


 今回の措置も「キーボード必須条件」とあり、その意味で筆記具だ。しかし当然PCなので、それに留まるものではない。「文房具」を手元の日本語大辞典で引くと「書斎生活に必要な調度品の総称」とあり、さらに「学習用具をさすことが多い」とも記されている。そこまで読むと「ああ学習用具か」と収めたくなる。


 ところが深読み癖のついている自分は、編集者が「文具」を「文化をつくりだす道具」と使ったのでは…と考えてみたい。もう20年以上前から学校へのICT導入は強調されていたが、学習面では遅々として進まない現状を知る者としては、やはりこのステップは大きい。しかしまた、それが何をもたらすか。不安も残る。


 手で書くアナログ行為の衰退が今以上進行し、研究者らの指摘する「身体性と強く結びつく表現・思考」が弱体化しないか。文化は常に新しく作り出されるとはいえ…。ところが現状はもっと問題を孕む。既に2015年頃にスマホの浸透により「PC操作できない若者」が話題になったはず。文具は先をいっていたのだ。

摘草やれずに摘読だあ

2021年04月10日 | 読書
 木曜朝には下の孫を連れて近所を散歩し、今年初のバッケを収穫。夕食の天ぷらで食した。そろそろ春山へと思うが、何しろ花粉が怖い。そんなこともあり草木の恵みは後回しにして読書でも…ということは全くなくて、相変わらずの風呂場と寝床での乱読。でも、この2冊は読み切れなかったなあ。集中力不足かあ。


『ガリヴァーの帽子』(吉田篤弘 文春文庫)

 今までも時々、うあっ難しい(というよりついていけない)と思う作品に出合っていた。今回は短編集なので8割方読んだが、正直散漫でイメージ化できないままだ。ただ、一つだけ「かくかくしかじか----あるいは彗星を見るということ」はユニークで、楽しめた。ああ、こういう手法があったかと思わせられる逸品だ。

 30ページ足らずの話に、毎ページにほぼ数回登場してくる箇所がある。それは「……。 ……。」の2行。横書きではなく縦書きである。何を表しているか。それはいわゆる沈黙、空白ではなく、話者の姿そのものだ。つまり「泡」。「笑わば笑え。我らシャンパンの泡を。」という一行に込められたセンスの良さ。さすがです。


『オックスフォードからの警鐘』(苅谷剛彦 中公新書ラクレ)

 間違いなく「現代日本の知性」に数えられる学者の一人だと思う。「グローバル化時代の大学論」と副題で、ここ数年の論考がまとめられていた。序章「日本の大学が世界の大学が『落ちこぼれ』になる」はしっかり読み、ほぼ趣旨を理解した(気になった)。あとは飛ばし気味になぞった…しかし、後半でまた読み入る。

 「成人力がトップなのに生産性が低い理由」と題した章には得心した。高学歴社会が進んだ我が国で「増大した人的資本は付加価値を生む資本になりきれず、その高度化した能力はより高度なサービスを提供する中で使い果たされる」と指摘した。それが賃金の上昇より「過剰なサービス」を生んだという。さすがです。

偽善者50年の結論

2021年04月09日 | 読書
 一般的な言われ方として(もはや死語ではあるが)「三無主義」のしらけ世代と称されてきた。しかし、そういう括られ方をされながらも、中学生の頃か、他人に投げつけられる言葉として、最悪レベルの一つに「偽善者」があった。自分を見透かされていると、どきっとしたものだ。昭和期齢相応の平均像か。


『現代 野蛮人入門』(松尾スズキ  角川SSC新書)

 その頃から50年もそんな気分を引きずって生きてきたとは思わない。しかし、この新書の第2章「偽善だっていいじゃないか」を読み、どこかホッとした気分になるのは、まだそんな青い欠片もあったことを教えてくれる。松尾の、居直りとも言えるその解釈に頷く。「『偽善』とは、『善の快感』を自覚していること


 演劇人らしく「演じる」という語の奥深さを考えさせてくれる。「偽善というのは、いい人を演じる行為」とし、「演じる、ということは、『いい人間』を俯瞰で見る」ことと語る。そこには個々の考える「いい」について疑いの眼差しも含まれる。何であれ、一つの価値観に埋没する危惧は、常に持ち合わせていたい。


 その意味で「善意の人より、偽善の人」「人を助けて褒められ、いい気持ち」とあっけらかんに語り、振る舞うことが健全ではないのか。一億総監視社会の中では、何をしても言っても他者の評価は気になるのが当然、そこにあえて逆らわず、本音では「軽くうつ。くらいが、この先の人間の基本的な塩梅。」と心得たい。


 劇中でよく使う言葉として「宇宙は見えるところまでしかない」を挙げ、それを最終章の見出しとしている。これは「全能感」という捉え方ではなく、逆に常に自己認識の外側を意識すること。他者と「わかりあえない」地点からどう足を伸ばすか。善という「欲」をバランス感覚で包みながら、そっと出そうと思う。

あの時代の7回裏で…

2021年04月08日 | 雑記帳
 雑誌に載ったあるエッセイを紹介するリードのような文章に、次のような比喩が使われていて、思わず唸った。

「昭和の7回裏あたり」

 これは上手い。
 昭和の全盛スポーツとしての野球7回裏という響き、そして思わず昭和何年頃かと考えさせ、そのあたりに自分は何をしていただろうとまで、想い巡らすことになった。



 昭和を粗く63年間と考えると「7回」は43年から49年まで、「裏」といえば46.47年から始まる勘定か。
 自分が高校生そして大学へ進む時期と重なる。
 エッセイの著者は私よりほんの少し年下ではあったが、いわば高度成長期の後半、まだ国や地方も元気があった時代だ。

 野球というゲームでいえば、勝負がある程度見えてくる回数とも言えるだろう。
 ラッキーセブンという言い方もあるが、魔の7回という呼び方も聞いたことがある。


 身近な話題から想像するに(手元にある町広報誌などを見て)、地方では昭和40代からインフラ整備が進み、交通網などもずいぶん発達した。
 そして「ハコモノ」が大量に作り出される典型的な時代の始まりだった。
 それは今から考えるとかなり問題を孕んでいたが、とにかく元気な活力ある雰囲気はあったと思う。


 都会はまた一歩どころか十歩も百歩も進んでいたはずで、近づくバブルの気配があったのかどうか定かでないが、強い憧れの対象だった。
 破天荒なことも含めて多様な文化が花開き、その後の姿を作りあげる要素が生まれていた時期であるのは確かだ。

 経済で言えば、7回裏の勢いのままに突っ走って9回裏に派手にバブルという駄目押し点が入って昭和がゲームセットとなったということか。
 しかし、次の平成という「試合」がどうだったかを振り返れば、まさしくどこかで舵取りを間違えたという印象は拭いきれない。


 それはひょっとしたら「昭和の7回裏あたり」に発端があるのでは…。

 エッセイの中身は実はまったくそんなことに関係ない、遊びや仕事の話なのだが、ふと考えてしまった。
 「8回」に大学生活を自由に過ごし教職に就いた自分は、目まぐるしい展開で変わりゆく生活に身を任せていたことを認めざるを得ない。


 きっと、その頃に何かを使いすぎて消耗してしまった、価値を知らずに捨て去ってしまったことが多くあり、次なる平成では攻めも守りも薄っぺらになりゲームを終えたのではないか。

 と、どこまでも比喩に頼りながら、令和の1回裏あたり(たぶん)で物思う。

三度目に、読み浸る

2021年04月07日 | 読書
 数年前にこの映画がシアターではなく自主上映会?のような形で案内があったとき、興味を持ったが行けずじまいだった。その後、TVで放送されたので録画はした。しかしこれも見ずじまいでディスクで眠ったままだ。心理的に避けているな、俺は…と自己分析。ところが文庫を見つけた三度目で、読み浸る。

『ペコロスの母に会いに行く』(岡野雄一 角川文庫)



 といっても、8コマ主体で長くとも数ページの漫画集、エピソードを綴っていく形式であり、軽読書の範疇である。ただいくつかあるエッセイも含めて、実に情感あふれる内容だった。親の介護(といっても施設訪問が主になっている)と幼い頃の思い出などを通して、人の一生の価値を問いかけられている気がした。


 特に「命がすれ違う春」と題された8コマは、なんとも言われない。車椅子での散歩の途中、母親は向こうからやってきた乳母車の赤ん坊と、顔を見合わせ微笑みをかわす。すれ違いざまに手を合わせる。そこに添えられた言葉は、人は齢をとればだんだんと子どもへ帰っていく、という意味の在りかを教えてくれる。

「命がふたつ並び
 すれ違う
 人生の重荷を降ろした笑顔と
 人生の重荷をまだ知らない笑顔の
 何とよく似たものか」


 筆者はいわゆる団塊の世代で、似たような境遇を持つ者は全国に何万人もいると思う。もちろん経験の質が違い、個々の歩んだ道は様々だろう。しかし同根を持つ者も多く、苦労した親、地域や周囲との関わりの濃さ、反抗や逃避を経ての自立、その果てに想う故郷と家族…と重なる風景に、心が温まるだろう。

悪いことの「善」を満たす

2021年04月06日 | 絵本
『わるいことがしたい!』(沢木耕太郎・作 ミスミヨシコ・絵  講談社)



 本屋で見つけたわけではなく、教育系のブログで、担任している子どもたちへ読み聞かせをしたことが書かれていて、作者が沢木耕太郎ということで興味を持った。

 「いたずら好きの男の子が登場!」と表紙カバー裏にあるように、「わるいことがしたい!」といって、散らかしたり暴れたりする展開から片づけがはじまり…という内容。
 読み聞かせをするなら、保育園から低学年あたりなのかなあと漠然と考える。


 それにしても、この「わるいことがしたい」という欲望はやはり生まれついてのものだろうか。
 平日、自宅で預かっている愛孫一歳九か月の男児も、「盛り」である。
 とにかく、いろいろな物に触りたがる、なめたがる、投げたがる、入れたがる、開けたがる、叩きたがる…といくら温厚な(笑)祖父母であっても、声を荒げないと歯止めが利かない場合もある。

 もちろんそれが「わるいこと」なのかは、まったく判断できないことである。
 ただ言えるのは、大人にとっては「都合のわるいこと」という状況が生まれるだけである。


 最近読んだ雑誌の対談で、「善」と「悪」のことが取り沙汰されていて、善とはいくつかの種類があり、道徳的によいことだけではないという話が出ていた。
 愛孫のしている行為は、彼にとっては善なんだろうな(子どもは悪戯をするときに、最も脳が活性化するという説があった)…少なくとも悪ではない、と大らかな心を思い出す。


 その意味では、絵本の中で、どこまでも「わるいことがしたい」心を抑えられない男の子は、善で満ちている。
 そう、それはただ「快楽的善」であり、それだけで人は生きていけないと徐々に知り、「有用的善」に目覚め、その過程で「道徳的善」を獲得していくのだろう。

 その段階での「善」を存分に満たしてやろう。