ちょっと前にどこか(どこだったか思い出せません)で知ったこと。
論文がアクセプトされない二つの理由。
1、誰かが既に同じ事をやっていた。
2、誰もやったことがなかった。
全く新しいものや概念を人々が受入れることは容易ではないと思いますが、誰にも理解されないというのは私にとってはなかなか快感を呼ぶものです。そんな機会はまずありませんが。Natureに載るような論文ではノーベル賞はもらえないというのは通説ですが、私のとってはノーベル賞は勿論のことNatureも一生縁がないかも知れませんから、負け犬の遠吠えに聞こえるのもむべなるかなですが。誰もやったことのない新しいことを評価する、その発見の価値を比較するものがない状態で自信をもって評価でするというのは勇気がいると思います。一方で法律のように判例にばかり頼って判断するようになると、前例のないイノベーティブな仕事は、理解できないから自分はわからない、自分がわからないものはよくないという思考停止型の安易な評価をつい行ってしまうのも世の人の常です。また同様に昔から受入れられている常識を覆すような発見というのも人々の感情的抵抗に会います。古くはコペルニクス、ガリレオ、最近ではフォルクマンやバリー・マーシャル。人は多かれ少なかれ変化を嫌うものですから、新しい発見にわくわくするよりも、それによって自分の価値観の変更をせまられる可能性に対する恐怖の方が大きいのでしょう。しかし、新しい発見が抵抗する古いパラダイムをひっくり返す場面は、ちょっと古いですが安芸乃島が横綱を寄り切るのを見るような爽快感があります。
とにかく、そうした人間の感情的抵抗というものは自然科学研究において実は最も大きい実際的問題(特に論文やグラントというレベルで)ではないかと最近つくづく思うことが多いのです。人間誰でも自分自身や自分の仕事を批判されると不愉快に思うものです。科学論文は懐疑的にレビューするというのは建前ですが、レビューアによっては罵詈雑言といってよいような感情的な言葉使いをする人もいて、論理的な議論にもっていきようのない人もいます。欲求不満を匿名で他人を攻撃することで晴らしているとしか思えないような人もしばしば見受けられます。そんなレビューをみると、客観的観察と論理で結論を支持していくという科学研究であっても、人間は感情の動物で論理も客観も感情と主観の上に成り立っているのだと思い知らされます。逆のパターンもありました。レビューアは筋の通ったコメントをしているのに、どういうわけか著者の方は必要以上にディフェンシブになっていて自分の意見を通そうとするのです。勿論レビューアへの返答にレビューアを批判するわけにはいきませんから、レビューアの意見を尊重するとはしつこく書いておきながら、一切意見は取り入れないというような反応だったのです。レビューアへの返答だけで20ページぐらいあって、そんな大した論文でもないのに意固地になっているのを見て、なんというエネルギーの無駄遣いだろう、人間、感情的になってはいかんなとつくづく思いました。
論文がアクセプトされない二つの理由。
1、誰かが既に同じ事をやっていた。
2、誰もやったことがなかった。
全く新しいものや概念を人々が受入れることは容易ではないと思いますが、誰にも理解されないというのは私にとってはなかなか快感を呼ぶものです。そんな機会はまずありませんが。Natureに載るような論文ではノーベル賞はもらえないというのは通説ですが、私のとってはノーベル賞は勿論のことNatureも一生縁がないかも知れませんから、負け犬の遠吠えに聞こえるのもむべなるかなですが。誰もやったことのない新しいことを評価する、その発見の価値を比較するものがない状態で自信をもって評価でするというのは勇気がいると思います。一方で法律のように判例にばかり頼って判断するようになると、前例のないイノベーティブな仕事は、理解できないから自分はわからない、自分がわからないものはよくないという思考停止型の安易な評価をつい行ってしまうのも世の人の常です。また同様に昔から受入れられている常識を覆すような発見というのも人々の感情的抵抗に会います。古くはコペルニクス、ガリレオ、最近ではフォルクマンやバリー・マーシャル。人は多かれ少なかれ変化を嫌うものですから、新しい発見にわくわくするよりも、それによって自分の価値観の変更をせまられる可能性に対する恐怖の方が大きいのでしょう。しかし、新しい発見が抵抗する古いパラダイムをひっくり返す場面は、ちょっと古いですが安芸乃島が横綱を寄り切るのを見るような爽快感があります。
とにかく、そうした人間の感情的抵抗というものは自然科学研究において実は最も大きい実際的問題(特に論文やグラントというレベルで)ではないかと最近つくづく思うことが多いのです。人間誰でも自分自身や自分の仕事を批判されると不愉快に思うものです。科学論文は懐疑的にレビューするというのは建前ですが、レビューアによっては罵詈雑言といってよいような感情的な言葉使いをする人もいて、論理的な議論にもっていきようのない人もいます。欲求不満を匿名で他人を攻撃することで晴らしているとしか思えないような人もしばしば見受けられます。そんなレビューをみると、客観的観察と論理で結論を支持していくという科学研究であっても、人間は感情の動物で論理も客観も感情と主観の上に成り立っているのだと思い知らされます。逆のパターンもありました。レビューアは筋の通ったコメントをしているのに、どういうわけか著者の方は必要以上にディフェンシブになっていて自分の意見を通そうとするのです。勿論レビューアへの返答にレビューアを批判するわけにはいきませんから、レビューアの意見を尊重するとはしつこく書いておきながら、一切意見は取り入れないというような反応だったのです。レビューアへの返答だけで20ページぐらいあって、そんな大した論文でもないのに意固地になっているのを見て、なんというエネルギーの無駄遣いだろう、人間、感情的になってはいかんなとつくづく思いました。