しばらく書き物をしていて、あらためてパソコンとワープロの便利さを実感しています。パソコンでの書き物にMicrosoft Word は欠かせません。その他のワープロソフトを余り使った事が無いので比較はできませんが、昔、パソコンでの英作文を始めたころから、皆アップルのコンピュータにマック版のワードという組み合わせでやってました。それだけワードの使い勝手がよかったのか、たまたまそこにソフトがあったから皆で使っていたのかよくわかりませんが、私は未だにマックにワードです。現にこの日本語もワードを使っています。そのワードを作った初期チームのメンバーの一人、 Richard Brodieがマイクロソフトを去ってから出した本が、「Getting past OK」でした。この本の発行は今から約15年程前になりますが、私が読んだのは5-6年前です。結構感銘を受けて、これを学生時代に読んでいたら私の人生は随分違っていただろうと思った覚えがあります。最近は皆が「成功」しようとする意識が高いようなので、この本に書いてあることはとりわけ目新しいことはないかも知れません。この本を読んだ当時は私はそれまでビジネス書や「成功本」は余り読んだ事がなかったし、私の学生時代のころは、自分の成功ばかりを追求することは浅ましいみたいな雰囲気もありましたから、その本に書いてあった事は結構新鮮でした。もっと広い意味で、生きている理由や目的を知り、より充実した人生を送るために重要な事というのは、世間が言う成功するために重要な事と同じなのです。私が中でも特に重要だと感じて、以来折りにつけ自分に言い聞かせていることは、「自分の人生に起きるすべての事に責任をもつ」ということでした。しばらく前、誰かのブログで、大阪の雑踏を歩いていた小さな女の子とそのお母さんの話を読みました。火のついた煙草を無造作に持って人ごみを歩くマナーの悪い人が大阪(に限りませんが)には沢山います。その煙草がその女の子の着ていた洋服にあたったらしく焦げあとができてしまったのです。小さな女の子はお気に入りの洋服の焦げあとを見て泣き出しましたが、その女の子に向かってお母さんは、「この人ごみでマナーの悪い人がいっぱいいるのだから、注意して歩かないと自分が損をする」と諭したというのでした。これを見ていた著者の人(非大阪人)は、いわば被害者のしかもまだ幼い自分の娘に対して、加害者の非を責めたり被害を慰めたりする以前に、自分が損をするしないということをまだ幼い女の子に言っているのを聞いて、大阪の人に感銘(余りポジティブな方向ではない)を受けたのでした。しかし私はこの話を読んで、このお母さんは「できる」と思ったのでした。自分の人生に責任を持つということは、不可抗力と思えるようなことに対しても、自分の行動が寄与した部分をはっきりさせ、それによってより「得な」人生を送る秘訣なのです。このお母さんがもし、「くわえ煙草で歩く人が悪い、人ごみが悪い、大阪の警察の取り締まりが悪い、、、」と自分ではなく外の要因ばかりに注意を向けたら、自分自身の過失を看過してしまいます。勿論、人の迷惑や危険を理解しないマナーの悪い人が、悪いに決まっています。要は、良い悪い、正しい間違っているというレベルでとどまっていては向上は望めないということです。いくら正論を身にまとっても、正論は我が身を悪い人から守ってはくれません。そういう危険があるのに十分注意しなかった自分が悪いのです。そう考えられれば、次から同じ事がおこる可能性は低くなります。相手が悪いと思って自分を改めなければ、また同じ事がおこるでしょう。この被害者意識というか、自分の不幸を常に誰かのせいにしていまう性向というのは、非常に有害です。そのうち本当は自分が悪くても他の誰かや社会や何か自分以外のもののせいにし出します。
江戸時代の禅師、盤珪のエピソードで、短気を相談する僧の話があります。
僧: それがしは生まれ付いて平生短気でござりまして、師匠もひたものいけんを致されますれども、直りませず、私も是れはあしき事じゃと存じまして、直そうといたしますれども、これが生まれ付きでござりまして、直りませぬが、是れは何と致しましたならば、直りましょうぞ。お示しにあずかりとう存じまする。
盤珪: そなたはおもしろいものを生まれ付かれたの。今もここに短気がござるか?あらば只今ここへお出しゃれ。直してしんじょうわいの。
僧: ただ今はござりませぬ。なにとぞ致しました時には、ひょっと短気が出まする。
盤珪: 然らば短気は生まれつきではござらぬ。何とぞしたときの縁によって、ひょっとそなたが出かすわいの。そなたの短気が出まするは、向こうの者がそなたの気にさかうた時、我が思惑のようになきに、思惑を立てたがって、向こうのものに取りあうて、我でに短気を出かしておいて、短気が生まれつきでならぬというは、親の生みつけもせぬ難題を、親にいいかぶする大不孝なんでござるわいの。人々みな親の生み付けてたもったは、仏心ひとつで余のものはひとつも生み附けはしませぬわいの。我でかさぬに短気がどこにあらうぞいの。
短気を「生まれつき」と片付けてしまえば、短気は直りません。短気であるのは自分自身に責任があると考えることが、短気を直す最初の第一歩というわけです。
研究や人生では、運とか不運とかしかいいようのないことが沢山おこります。そうしたものがあることは皆が理解していると思います。もし自分が億万長者の家に生まれていたらとか、もうちょっとハンサムだったらとか、そんなことを思わない人はいないでしょう。世の中不公平だなあとため息をついたことの無い人もいないと思います。しかしそこで、着実によい人生を実現していける人は、金持ちや二枚目に変に嫉妬したり、金持ちでもハンサムでもない親を恨んでみたり、結局世の中は運次第だと開き直ってみたりはしません。不公平な世の中を受入れ、不運な自分を受入れて、その中でベストを探して努力しています。私のまわりにも人生期待したようにいかずに不平をこぼす人がいますが、必ずといっていいほど、うまくいかないことを何か自分以外の人やもの、それが見つからない時は運とか天とかのせいにしています。そういう人に成功の秘訣は「ハードワーク」だよと教えて上げても受入れようとはなかなかしないのです。幸せな人生を送っている人は間違いなく自分自身でその幸せをつかんでいるようです。(少なくとも私はそう考えて励みにしています)
江戸時代の禅師、盤珪のエピソードで、短気を相談する僧の話があります。
僧: それがしは生まれ付いて平生短気でござりまして、師匠もひたものいけんを致されますれども、直りませず、私も是れはあしき事じゃと存じまして、直そうといたしますれども、これが生まれ付きでござりまして、直りませぬが、是れは何と致しましたならば、直りましょうぞ。お示しにあずかりとう存じまする。
盤珪: そなたはおもしろいものを生まれ付かれたの。今もここに短気がござるか?あらば只今ここへお出しゃれ。直してしんじょうわいの。
僧: ただ今はござりませぬ。なにとぞ致しました時には、ひょっと短気が出まする。
盤珪: 然らば短気は生まれつきではござらぬ。何とぞしたときの縁によって、ひょっとそなたが出かすわいの。そなたの短気が出まするは、向こうの者がそなたの気にさかうた時、我が思惑のようになきに、思惑を立てたがって、向こうのものに取りあうて、我でに短気を出かしておいて、短気が生まれつきでならぬというは、親の生みつけもせぬ難題を、親にいいかぶする大不孝なんでござるわいの。人々みな親の生み付けてたもったは、仏心ひとつで余のものはひとつも生み附けはしませぬわいの。我でかさぬに短気がどこにあらうぞいの。
短気を「生まれつき」と片付けてしまえば、短気は直りません。短気であるのは自分自身に責任があると考えることが、短気を直す最初の第一歩というわけです。
研究や人生では、運とか不運とかしかいいようのないことが沢山おこります。そうしたものがあることは皆が理解していると思います。もし自分が億万長者の家に生まれていたらとか、もうちょっとハンサムだったらとか、そんなことを思わない人はいないでしょう。世の中不公平だなあとため息をついたことの無い人もいないと思います。しかしそこで、着実によい人生を実現していける人は、金持ちや二枚目に変に嫉妬したり、金持ちでもハンサムでもない親を恨んでみたり、結局世の中は運次第だと開き直ってみたりはしません。不公平な世の中を受入れ、不運な自分を受入れて、その中でベストを探して努力しています。私のまわりにも人生期待したようにいかずに不平をこぼす人がいますが、必ずといっていいほど、うまくいかないことを何か自分以外の人やもの、それが見つからない時は運とか天とかのせいにしています。そういう人に成功の秘訣は「ハードワーク」だよと教えて上げても受入れようとはなかなかしないのです。幸せな人生を送っている人は間違いなく自分自身でその幸せをつかんでいるようです。(少なくとも私はそう考えて励みにしています)