百醜千拙草

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ニュース雑感、レヴィ=ストロースの余韻

2009-11-10 | Weblog
アメリカでのヘルスケアリフォーム法案が議会でついに承認されました。賛成220票、反対215票というきわどい数で、賛成票を投じた共和党員はたった一人、民主党と共和党との根本的な考え方の相違が超え難いものであることを示しています。この法案はアメリカ国民全員が健康保険を持つことを義務化するもので、アメリカ国民全員が必要な時に必要な医療が受けれるようにしようということです。国民皆保険制の日本や他の先進諸国では当たり前のことですが、多民族国家で、旧移民と新移民間での利益相反が常にあるアメリカでは、保守派白人系アメリカ人を主とする共和党は、自らの利益にはならないと思われるこの法案には批判的であり、この法案の実行に必要な巨額の資金を主たる理由として反対してきました。一方、私立の健康保険会社は、病気の人の加入を拒んだり、支払いを拒否したりと、弱者の命と健康を犠牲にして、利益を生み出してきた、非人道的な現実があります。こういうシステムの問題は、アメリカ国民の誰にとっても正されなければならないことでありますから、このヘルスケアリフォームは為されなければならないことです。これまで、経済の調子のよかったころに、やるチャンスは何度もあったのに、目先の金を福祉に使いたくない人々がこの法案設立を潰してきました。そのために、経済危機となり、失業率が10%を超えた今になって、ようやく法案が成立することになりました。これが実行されて、その意義を国民が理解できるようになるまでは、まだまだ、時間も努力も必要でしょう。この法案は「奴隷解放」に匹敵する歴史的なものではないかと私は思います。行方を見守りたいと思います。

鳩山政権に対する不満があちこちで出始めました。政権政党ですから、不満が出るのは当たり前で、支持率が落ちていくのも当たり前なのですけど、私は、沖縄米軍基地問題に対する首相のあいまいな態度はマズいと思います。公約に挙げたことは必ず守る努力をしなければならないと思います。嘘つきはドロボーの始まりです。沖縄基地問題で、首相が厳しい立場に置かれているのは、よくわかります。日米安保の要であり、下手をすると日米外交に決定的な影響を与える可能性があります。しかし、国民との約束はそれに勝ります。このジレンマに対して、どのようにアメリカと交渉して、公約を実現するか、その考えと方針をはっきりと説明して国民の理解を得なければなりません。脱官僚を訴えて、政治主導を公言した以上、それだけの責任を自らが負うということですから、それが失敗した場合、国民の政治不信はますます増幅され、平成の無血革命は茶番に終わります。最近、民主党への失望感が予想以上のスピードで広がりつつあるのではないかと私は心配しています。首相は国民の目をまっすぐに見つめ、丹田に力を込めて「失敗したら腹を切る」覚悟を見せないといけません。優柔不断は敵です。

レヴィ=ストロース死去の余韻がまだ残っています。ようやく、悲しき熱帯の下巻を読み始めたところですけど、この本の巻頭に、次の言葉が引用されていることにあらためて目が留まりました。

ローランのために
 お前と同じように、これまでそうした世代は亡びてきたし、これからも亡びるだろう。 --- ルクレティウス「事物の本性について」第三巻九六九

ローランが誰なのか私は知りませんが(彼の息子でしょうか?)、誰かに知ってもらいたい何らかのメッセージがこの本には含まれていて、さらにそのメッセージを強めておく目的でこの言葉が添えてあるのだろうと思います。この言葉の意味になんら目新しいところはありません。祇園精舎の鐘の声や沙羅双樹の花の色に古人が感じてきたものと同じです。わざわざこの言葉を巻頭に添えた意図を思うと、レヴィ=ストロース自身が、彼の民族学という学問における無常性、民族や人種はつかの間の極めて流動的なものだということ、に悲観的な自覚を持っていたことが読み取れます。しかし、彼は、その無常の民族学を通じて、構造主義というある種の「科学的法則」に達し、その虚無感から救われたと一時的には感じたのではなかったでしょうか。そして、何十年が経ちました。永遠の命を持つと期待された「科学的法則」ももてはやされ、批判され、そして最も忌まわしい末路である、忘却と無視、に遭遇することになりました。振り返れば、本当に確実な存在は、「彼自身が経験し思考したもの」だけです。忘れ去られた法則は存在しないと同じことです。そういう意味で、レヴィ=ストロースの著作は、これからも読む価値があるのだろうと思います。(それに彼は、とても文章がうまいと思います)
 レヴィ=ストロースの死を扱っているブログを見てみますと、驚いたことにかなりの数の人が、このニュースに際して、私がレヴィ=ストロースの死を知ったときと同じように反応していたことがわかりました。つまり、「えっ、まだ存命だったのですか!(とっくに亡くなったものと思っていました)」という驚きです。このことが、かつての「知」ブームが去ってしまったのだということを裏付けているように思います。酒場で「目の前のコップの存在」について、延々と考え語って飽きなかった若かりし日々はとうに忘却の彼方へ去り、コップは液体を入れる単なる容器に戻って久しい中年以降の人々が、遠い目をして思い出す、私も含む多くの日本人にとって、レヴィ=ストロースとはそんな存在であっただろうと想像します。だからこそ、このタイミングはずれの彼の死が妙に余韻を引くのではないかと思うのです。あるいは、バッハやモーツアルトが、大作曲家というイメージとその楽曲のみによって覚えられているように、レヴィ=ストロースも肉体を持った人間であることが意識されないほど、人々に意識の中では抽象化された存在となって古典というカテゴリーに整然と仕舞いこまれてしまっていたということなのでしょうか。
 構造主義やポストモダンが人々の話題から消え去り、グローバリゼーションによって、少数民族は保護区に追いやられ、世界中の子供がマクドナルドのハッピーミールで成長するようになった現代を、レヴィ=ストロースはどういう気持ちで眺めたのでしょうか。かつての同胞、友、敵、ライバル、皆が去っていった後も、一人生き残り、「知の時代」の終焉を見届けなけなればならなかった彼は、ひょっとしたら、死んだ我が子の墓を建てる老いた父親のような心情であったかもしれません。あるいは、彼自身、その生来の悲観的性向で、淡々とした気持ちで、まるで窓の外の天気を確かめるかのように、世界の移り変わりを見守っていたのかも知れません。あるいはまた、もし「悲しき熱帯」の巻頭に添えられたルクレティウスの言葉が、この著書をきっかけにして劇的なパラダイムの変換を引き起こした構造主義の行方についての自己予言であったとしたら、総てが筋書き通りに展開していく様を、台本作家が劇を見るような感じで見ていたのかも知れません。
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