百醜千拙草

何とかやっています

それはきっと愛

2013-03-01 | Weblog
零細研究者にとっては住みにくい世の中になってきました。中小企業と同じで、必要なのは売れる商品とよい人力と資金です。どれ一つ欠けても成り立ちません。資金というのはとにかく一番の問題で、これだけ研究をめぐる資金環境が悪くなってくるとストレスを感じることも多くなりました。余計な精神的ストレスは百害あって一利なしです。自然で自由な環境で楽しく、のびのびとやってこそ、研究も進むというものです。それで、ストレスを減らし楽しく毎日を充実して過ごすにはどうすればよいのか考えています。

一つはストレスを感じるのは環境や外部条件のせいだという考えを改める必要があるということがわかってきました。とは言っても不愉快な出来ごとは自分の意志とは無関係にしばしば人生におこり、それに対してはつい条件反射的にイヤな気分となってしまうのが凡人の常です。しかし、その不愉快な出来事の受け取り方を自ら変えていくことが唯一、自分にコントロールできる方法のようです。簡単には、不愉快な出来ごとは成長のための試練だと見なすことで乗り切ることですね。どこかのサイトで、イヤなことイヤな人は神があなたを磨くために与えたサンドペーパーである、というようなことが書いてありました。一歩進んで、イヤなことやイヤな人は「神の愛」の現われであると解釈すればよいとも言えます。困ったこと、困難なことが現実に起こるのですが、それを困ったこと、排除したいことと捉えるのではなく、あなたの人間を磨くために、神が愛ゆえに、与えた贈り物だと解釈することによって、人はそれを乗り越えて成長できるということですね。

それで昔の歌のフレーズをふと、思い出しました。「あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛、、、」というのです。誰の曲だったかよく覚えていなかったので調べてみると、五木寛之さんの作詞なのだそうです。五木寛之さんの仏教関係の本は何冊か読んで、その都度、共感を覚えたものでした。なるほど、五木さんの書く歌謡曲の歌詞も意味深いと私は納得したのでした。

困ったこと、ストレスを感じる状況、それを何とかしようとしても、しばしば、何ともなりません。良いジャーナルに論文を載せたくても、相手がリジェクトしてきます。次のグラントを取りたい、取れないと仕事を失う、と必死になっても、ダメなものはダメ、と非情な判断がしばしば下ります。その現実を変えることはできません。できるのは、その状況を建設的に受け入れ、よりよい将来を目指して歩むことだけです。嬉しい出来ごとに「神の愛」を感じることは易しいです。しかし普通の出来事、不愉快な出来事にも愛を感じるべきなのでしょう。つまり、困った状況もたぶん愛であり、本当にきっと愛なのだと考えることが大切なのでしょう。
それで、最近、嬉しくないことに出会ったら、その都度、この歌詞を口ずさむようにしているのです。
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