昨日今日は、暑いぐらいの陽気となりました。夜寝る時に掛け布団なしで寝転がって、窓から入る風に吹かれるのは気持ちいいです。長い冬の後で春が来た時の喜びはひとしおです。しかし喜びは長続きしません。もうすぐ暑い夏がやってきます。こう考えるとやはり世の中苦しい事ばかりです。自分が進んで求めているわけでもないのに、つらい事ばかりがやってくるような気がします。前回の「国家の品格」の本の中で、著者は「自由と平等」というのは幻想だと言っています。その通りだと思います。存在する可能性があるとすれば個人の心の中だけでしょう。人はみな自由でありたいと願っていますが、実際には自分の体ひとつ自由になることは少ないわけです。人は、不自由な現実を受入れてその中で幸せな心を維持できるようにする修行をせねばならぬのですが、難しいものですね。
死後を訊かれて「檀家の家の推古牛に生まれかわる」と言った南泉は、「およそ沙門たるものは、畜生の生活を行じなくてはならなぬ。畜生の生活を行じなければ、道理というものはない」と言ったそうです。私の勝手な解釈では、明日何を食わんと思い煩い、何を着んと悩むことなく、ただただ栄光に満ちた生を生きているように見える動物たちのように、真っすぐに生を享受しようという提言なのだと思います。仏教で言う「無」は、単に存在がないという受動的な意味でなく、「存在する、存在しないという分別が現れる前の状態」を指していると思います。畜生の生活を行ずるとは、あれこれ思い煩う人間らしさを無くせという意味では勿論なく、そうした人間しか持たない分別の生まれる以前を見る努力をせよとの謂いでしょう。「自由や平等」が幻想であり、この世は不自由でいっぱいだと思うのは、この人間の持つ分別のせいです。こうした不安を単純に分別を捨てることで回避するのではなく、分別の生まれてくる前に注意することで解消しようと南泉は言っているのでだと思います。掛け軸などによく見る「州曰無」は、南泉の弟子であった趙州が、「狗犬に仏性ありや」と訊かれて「無」と答えたという有名な公案から来ています。すべての生き物は仏性の中に生きていると考えるのが仏教の常識でしょう。なぜ趙州が「無」と答えたのか、その答えを見つけるのが修行なのですが、私の解釈では、この「無」こそ分別前の分別(無分別の分別)を指しているのだろうと思います。まだ「有」も「無」も「無い」状態、そこでは「仏性がある、ない」という問題さえ無いのでしょう。だから犬に仏性が無いと言うとき、当然人間にも他の動物にもどこにも仏性はないのであって、犬はその自由や不自由が生まれる以前を生きているということを言っているのだと思います。
これをすわって書いているとだんだん腰が痛くなってきました。喉も乾いてきました。体の方が腰を伸ばせ、水を飲んでこいと命令するのです。不自由なことです。自由も不自由もない本当の自由ってどんな感じでしょう?私のレベルでは、不自由であることが当たり前であるということを受入れるというのが最も現実的みたいです。
死後を訊かれて「檀家の家の推古牛に生まれかわる」と言った南泉は、「およそ沙門たるものは、畜生の生活を行じなくてはならなぬ。畜生の生活を行じなければ、道理というものはない」と言ったそうです。私の勝手な解釈では、明日何を食わんと思い煩い、何を着んと悩むことなく、ただただ栄光に満ちた生を生きているように見える動物たちのように、真っすぐに生を享受しようという提言なのだと思います。仏教で言う「無」は、単に存在がないという受動的な意味でなく、「存在する、存在しないという分別が現れる前の状態」を指していると思います。畜生の生活を行ずるとは、あれこれ思い煩う人間らしさを無くせという意味では勿論なく、そうした人間しか持たない分別の生まれる以前を見る努力をせよとの謂いでしょう。「自由や平等」が幻想であり、この世は不自由でいっぱいだと思うのは、この人間の持つ分別のせいです。こうした不安を単純に分別を捨てることで回避するのではなく、分別の生まれてくる前に注意することで解消しようと南泉は言っているのでだと思います。掛け軸などによく見る「州曰無」は、南泉の弟子であった趙州が、「狗犬に仏性ありや」と訊かれて「無」と答えたという有名な公案から来ています。すべての生き物は仏性の中に生きていると考えるのが仏教の常識でしょう。なぜ趙州が「無」と答えたのか、その答えを見つけるのが修行なのですが、私の解釈では、この「無」こそ分別前の分別(無分別の分別)を指しているのだろうと思います。まだ「有」も「無」も「無い」状態、そこでは「仏性がある、ない」という問題さえ無いのでしょう。だから犬に仏性が無いと言うとき、当然人間にも他の動物にもどこにも仏性はないのであって、犬はその自由や不自由が生まれる以前を生きているということを言っているのだと思います。
これをすわって書いているとだんだん腰が痛くなってきました。喉も乾いてきました。体の方が腰を伸ばせ、水を飲んでこいと命令するのです。不自由なことです。自由も不自由もない本当の自由ってどんな感じでしょう?私のレベルでは、不自由であることが当たり前であるということを受入れるというのが最も現実的みたいです。
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