百醜千拙草

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核先制不使用宣言の意義

2009-10-20 | Weblog
昨日のニュース。

岡田克也外相は18日、京都市で講演し、米国による核兵器の先制不使用宣言について「日米間でしっかり議論したい」と語り、米側に不使用宣言をするよう働きかける考えを示した。日本政府はこれまで核抑止力の観点から米国の宣言に反対してきた。
  核の先制不使用は18日の「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」の本会合でも議論され、年明けにも出される最終報告書に盛り込まれる見通し。岡田氏は報告書がまとまった段階で、米側に議論を提起したい考えだ。 岡田氏にとって核の先制不使用は野党時代からの持論だが、外相就任後は「外務省内でよく議論したい」と主張を抑えていた。

 「核抑止力の観点から日本はアメリカの宣言に反対してきた」ということは、「自分からは使わない」と禁じ手にしたのでは、核を保持している意味がないということですね。この理屈については、先日の内田樹の研究室で議論されております。いつ核を使うかも知れないという恐怖感が抑止力の根源であるということです。一方、同日のニュースではイランで自爆テロで31人死亡とのニュースが並んでいます。テロ(あるいは理想の実現)のためには自分も他人も死んでもよいと思う人々がこの世にはいるわけで、そんな恐怖感の閾値が我々と違うと思われる人にとっては、「いつアメリカやロシアが核爆弾を落とすかも知れないという恐怖感」は、ないに等しいのかもしれません。アメリカの核がテロリストには効かないということも同プログでも述べられております。そして、核抑止力が維持されるためには、核保有国の中にテロリストなみに不条理な人間がいて、そういうヤツが何らかの拍子に核ボタンを押してしまうかも知れないという状況が必要だ、というようなことが議論されております。
 それでも、文明国であるアメリカなどが核を保有している限りは「無茶な事はしないだろう」という安心がわれわれにはあります。一方、その核が恐怖感閾値に明らかに「ずれ」があると思われる自爆テロリストや彼らと同様の思考をする者の手に渡った時のことを考えると、これは結構な恐怖です。「xxxxに刃物」なわけで、ただでさえ理解困難な人々ですから、そういう人々の手に大量殺傷兵器が渡った場合に何がおこるか考えたら本当に恐ろしいです。おそらく彼らは、武器をチラつかすだけで実際に使わない「兵は不祥の器」的兵器観を持ちあわせている可能性は低いでしょう。砂漠の民との理解し合えない溝に打ちひしがれたアラビアのロレンスを思い出します。
  交通事故を無くす、多分唯一の方法は、人々が交通しないことでしょう。少なくとも、車のなかった時代に車に敷かれて死んだ人はいなかったに違いありません。核による人類の殺傷を防ぐ唯一確実な方法は、おそらく、核を捨てることしかありません。持っていれば使いたくなるのは人の情です。アメリカが、「核の先制使用をしない」宣言をするということは、他の核保有国に対しても、同様の宣言を強いることになると思われます。勿論、そのような宣言がどれぐらいの実効力を持つかは多いに疑問視されるところではありましょう。歴史を振り返れば、一旦、戦争になってしまったら、宣言や約束など何の意味もありませんでした。ベルサイユ条約を破棄して第二次世界大戦に入ったドイツにしても、日露中立条約を破って、火事場泥棒的に満州侵攻してきたロシアにしても、約束は破られるためにあるようなものです。戦争に勝ったものが、どんな戦法も正当化してきたわけですし。「約束は守る」「嘘をつかない」「他人を傷つけない」、このように幼稚園の時から教えられてきたことが、国と国との関係ではしばしば「やってはいけないこと」とされます。それはお互いを信用できないヤツだという疑いの目で見ているからです。これまではそれもやむを得ないことでした。しかし、私は何度か言いましたが、世界は少しずつ、成長してきていると思います。歴史は繰り返すかも知れませんが、ちょっとずつ違ったように繰り返されるのではないかと思います。それは、人々が、自らの過去の行為を反省し将来に生かそうとする智恵を身につけて来たからだと思います。これらの進歩は、過ちから学び、過ちを繰り返さぬように応用しよう、とする個人の意識の成長の総和に比例してきたと思います。
 ですので、核のない世界に向けて、まずは「核の先制不使用」の宣言は悪くない出だしだと私は思います。これは宣言することそのものに意味があると思います。何らかの行動を通じて、人々の意識は刺激されていきます。核保有国で最も力を持っていると考えられているアメリカが「核先制不使用」を宣言するという行動はそれなりにインパクトがあると私は思います。
  我々が平和な文明社会を享受するためには、安全が確保されることがまず第一です。そのためには、地球に住む人々が文明社会のスタンダードの意識基準を共有することが不可欠であろうと思います。核についての教育、核の先制不使用の宣言、などなどを通じて、テロリストにもよく核の恐ろしさを理解してもらわねばなりません。まず、相手に核を捨てろと言う前に、アメリカ自らがその手本を示さなければ、核のない世界の実現には一歩も進みません。その実現のためには、世界の人々が核に対する考えを共有できるように、意識の地球的成長が必要です。パラドキシカルですけど、それには行動が必要だと思うのです。つまり、既に核を持ってしまった現実で、核のない世界を実現していくには、地球的に人々の意識の成長が必要ですが、それは核を放棄していこうと努力をするという行動があって始めて可能ではないか、と私は思うのです。ですので、「核先制不使用」を宣言するという行為は、結局その宣言を守るか守らないかは別にして、最初の一歩としては、望ましいことであると私は思います。佐藤栄作の口先だけの「非核三原則」でも効果はありました。中身が伴っておれば良かったのにと思いますけど、あの時代では仕方なかったのかも知れません。
 私が「核抑止力」という理屈を信じないのは、それが自己矛盾だからです。「人類の平和のために人類滅亡を来すかもしれない兵器の恐怖に頼る」という理屈を小学生に分かってもらうのは難しいでしょう。小学生に理解できないような理屈で正しいものがあったためしがありません。「核兵器はとても危険なので無くしましょう」というのが当たり前の態度です。核抑止力とは「人を見たら泥棒と思え」式の少数の社会に害を与える者を排除するために社会全体を危機に晒す明らかに誤ったやり方です。これが理解できない人はいないでしょう。わかっているのなら正しいことをしなければなりません。人の不幸の多くは、わかっちゃいるけど止められないことをやり続けることで引き起こされるのです。
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