和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

こうした配慮。

2010-12-19 | 他生の縁
加藤秀俊著「常識人の作法」(講談社)を、私は楽しく読みました。
読みながら、さて、これをどうお薦めしたらよいかは、ちょっと解説がいるような気がしておりました。
そこで、思い浮かんだのが、阿部謹也著「『教養』とは何か」(講談社現代新書)の中の言葉なのでした。ということで、その引用から


「私がこの問題にはじめて気づいたのは中学校の校長との関係においてであった。その校長は卒業式の時にどんなに困難があっても自分が正しいと信じた道を進め、と説き、そのためには中学校の教師はいつでも協力すると語ったのである。
数年後に大学卒業を前にして大学院に通いながら働ける非常勤講師の口を探そうとしていた私はその校長を訪ねた。そのとき校長は私の教師の名をあげ、ああいう進歩的な教師の許にいたのでは非常勤講師の口など期待するほうが間違っているといったのである。そのときの校長の話し方は卒業式の時の話と全く異なっていた。彼は一人前の大人として私を遇し、『世間』の中での身の処し方を教えてくれたのである。『世間』の中で身を処して行くためには若いときの信念や期待などはかなぐり捨てて『世間』の常識に従わなければならない、ということを教えてくれたのである。
私は当時彼のこうした配慮に気づかなかった。私は校長に失望して中学校を去った。・・・・」(p99)

まあ、このあとが阿部謹也氏の本の本題となるのですが、それはそれとして、
加藤秀俊氏の著作を、すでにご存知の方には、説明を要しないのですが、加藤秀俊氏がどのような方かもしらずに、この「常識の作法」をはじめての1冊として読んだら、何か失望するのじゃないかなあ、といらぬ心配をしてしまう私なのでした。

まあ、この本は、気楽にご隠居のお話を聞いているような雰囲気があるのです。
別に、理路整然と説明をうけている気構えで読み始めると、その理路につまずくんじゃないかという、いらぬ心配をしてしまうのでした。

たとえば、また山本夏彦の選集が出版されるようでありますが、
山本夏彦の「愚図の大いそがし」にこんな言葉がありました。

「私たちは共通な人物と歌を失った。何よりその背後にある芝居を失った。言葉どころではないようだが、言葉から直していかなければこれは改めようがないのである。」

ここでいう「言葉」から直すということを始めたとします。
すると、つぎに「何よりその背後にある芝居を失った」ということに、はたと気づかされるのじゃないかと、私など思ってみるのでした。

ここはひとつ、ご隠居のところへと長屋の数人でお小言を頂戴にうかがったというお芝居を思い描いてみればよいような気がするのでした。つまり加藤秀俊ご隠居に、新米読者がご意見を頂戴しにうかがっているお芝居が、大切なキーポイントとなるような、そんな気がします。

いきなり、論理明快な筋運びを期待すると、常識と非常識とがぶつかって、読み進めなくなるような雰囲気があります。ここは、ひとつ、落語を最後まで聞いてみるつもりになって、読み進める事が肝要です。読後得るところが多いと思うのでした。つまり、反発する箇所もあるでしょうが、それが、あとあとに考え方の目印として残ってゆくような、踏み台としての役目を担っていると思えるのです。まあ、ご隠居は自然体で語られておりまして、それをとやかくいうのは若造の若造らしさになってくるのですが、あとあと知らないうちに身にしみるのがご隠居のお説教というものです。

ええ、そんなのは聞きたくもないというのですか。うん、そういう方は落語も聞かれないのでしょうねえ。もったいない。

おっと、ここでは、肝心な「常識人の作法」の内容へと踏み込めませんでした。またこんど。
コメント
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