和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

漢文訓読風の語調。

2010-12-08 | 短文紹介
一海知義著「史記」(平凡社ライブラリー)には、史記への案内と、ほかに一海氏による「小説 李陵」と、2010年夏の新しいあとがき。さて、この本が呼び水となって、私ははじめて中島敦著「李陵」を読むことが出来ました。そしてあらためてため息。

その「ため息」が、何だったのか、ちょっと気になりました。
ということで、
丸谷才一著「文章読本」をめくったわけです。
そこに「名文を読め」という箇所がある。
ちなみに、今年は竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)というのが出ておりました。
もどって、丸谷才一氏の文にこうある。

「この文体の基本に漢文があることは言ふまでもない。
徂徠がかういふ仮名まじり文を書くことができたのはまづ何よりも漢文のおかげである。とすればわれわれもまた、徂徠の万分の一程度であろうと漢籍を読まなければならぬ。いや、のぞかなければならぬ。『伊勢』『源氏』にはじまる和文系のもにつきあふことも大事だが、漢文系のものを読むのは現代日本人にとつてそれ以上に必要だろう。簡潔と明晰を学ぶにはそれが最上の手段だからである。・・・・・第一、日本語は漢字と漢文によつて育つたので、今さらこの要素を除き去るならば、われわれの言語は風化するしかない。」


「いや、のぞかなければならぬ」
というニュアンスが、遅まきながら気づかされた気分です(笑)。
ですが、万分の一程度は、きついなあ。と思うわけです。

ところで、丸谷才一著「文章読本」のつぎは、
向井敏著「文章読本」(文芸春秋社)をひらいてみました
(これは、それ、先頃ダンボール箱の本整理をしたばかりなので、
難なく取り出すことができます)。
そこにこんな箇所。


「たしかに、今日の文章のなかで漢文脈は影が薄い。・・・
けれども、漢語表現の簡潔と漢文訓読風の語調の快い響きは文章の質を判じる一つの規範としての力を今も決して失ってはいないし、およそ文章に関心のある人ならぜひともその語法を手に入れておくことが望ましい。・・・・・
幸いなことに、古文や漢詩文の昔にまでさかのぼらずとも、現代の口語体の文章のなかに漢文脈の語法を巧みに組み入れた、すばらしい手本がごく身近にある。中島敦の『李陵』がある、『弟子』がある、『わが西遊記』がある。そして司馬遼太郎の幾多の歴史長編がある。」(p151~152)

こうして、次に『李陵』の出だしを引用して、向井敏はこう書いておりました。

「・・・読むうちに居ずまいを正さずにはいられないような、こうした凛然たる気品は漢文脈以外の文体では求めがたい。さきにも触れたが、元来漢文脈は錯綜した状況を、簡潔に、かつ語調なめらかに集約して伝えるのに長じた語法である。・・・」


何か、この語法で、現代の政治状況を記述してくださる方を、自然ともとめたくなってきます。
まあ、とりあえず、一海知義氏の本から続けて、中島敦の『李陵』を読んで、そして、ため息。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする