「狐の読書快然」(洋泉社)を手にして、あらためて思ったことがありますので、備忘録がてら、書いておこうと思います。
まず、この本「狐の読書快然」は、あとがきに
「日刊ゲンダイでの連載は、今秋、1000回目に達する。」とありました。
面白いのは、まるで雑誌の最後に掲載されてる編集後記みたいな文が、この本の書評群のはじめと、途中とにあるのでした。それが気になるのでした。何でだろう、そこに狐さんがいるからでしょうね。そこが気になるのでした。まえに「狐の書評」(本の雑誌社)というのがあり、その次に「野蛮な図書目録」(洋泉社)が出ておりました。
「野蛮な図書目録」は、最初に「序」がついておりまして、そのはじまりはこうでした。
「本は立って読む。夜、自室の出窓に小さなライトを置き、その前に立って読む。あらかじめ時間を区切っておいて、その時間内は立ちながら読むことに沈潜する。・・・」
さてっと、今回手に入れた「狐の読書快然」は、
狐さんの書評以外の文章が四つもあるのでした。
題名だけでも
「立って読む」
「躍れよ、感官」
「両手で書く」
「跳ねよ、鍵盤(キーボード)」
さっそく「立って読む」から引用していきましょう。
はじまりは「夜は竹踏みの上に立って本を読んでいる。自室の出窓の前である。・・・」
そして数ページあとにはこうあるのでした。
「立ちながら読むといっても、禁欲的にそうしているわけではない。むろん愉しみながらそうしている。立って読むことを『発見』したときには心機が高揚した。臆面もなくいえば、おそらくは四百万年ほど前、アフリカ大陸あたりで初めて直立したヒトが覚えたであろう感動の、何百分の一かの気分は味わったはずである。」
う~ん。ちょっと臆面もなく引用しすぎでしょうか。
でも、つぎのページはこうもあるのでした。
それは、加藤周一著『読書術』にある「読書は精神の仕事です」という箇所を四行ほど引用したあとに書かれておりました。
「私の考えはちがう。読書は身体の仕事です。身体を忘れるのではなくて、活字をたどりつつも身体を意識できる、ひいては身体に快を覚えさせるのが読書の理想ではないでしょうか。そして身体に快を覚えさせられるのは、楽な姿勢においてではなくて、身体に適度な緊張を与えることによってだろうと思います・・・」
そのつぎは、われら凡才も思わず拍手をしたくなる一節が続くのでした。
「なるほど、『端座書見(たんざしょけん)』などという言葉はとっくに死語である。おそらくそうした読書の姿勢を一つの模範としていた時代に対するリバウンドが、いまの『楽な姿勢で読む』という常識を生んでいるのだろう。・・・・じっさい『楽な姿勢』で本を読んでいると、私などはいつしか立ち上がって冷蔵庫の中に何か飲食するものを探しはじめたり、またはふと寝入ってしまったりする。寝食を忘れて本に没頭するどころか、逆に読書を忘れて寝食にふけってしまいかねないのである。情けないが、事実なのだから仕方がない。」
このあとに、安達忠夫著「素読のすすめ」からの引用がつづきます。
そこも興味深いのですが、そして、狐さんのあと三つの文も興味深いのですが、これくらいにして、「狐の読書快然」には、狐さんの1000回へと到達した書評、その間の、身体の「快」がどうやら取り上げられえて、俎上にのぼっているのだなあと思えるのでした。
狐さんが山村修氏だと、わかってから読んだ「遅読のすすめ」(新潮社)には、そういえば、「死語」が語られておりました。
「とっておきのお茶を淹れ、快適な椅子にすわり、お気に入りの音楽を聴きながら、おもむろに本を開き、くつろいだ読書の時間を味わう。そのような過ごしかたを、私はほとんど体験したことがない。私の部屋には、そもそも椅子がない。どうでもいいことだが、本を読むときには畳の上に正座である。机は卓袱台(ちゃぶだい)である。たぶん、くつろいだ読書を味わうにも才能が要るのだ。自分のまわりに快い要素を呼びあつめることのできる人、そうして心身を自在に休ませることのできる才能をもっている人だけが、日常的にゆったりくつろいで本を読むことができる。そうでない私は、夜は畳の上に正座して足をしびれさせながら、朝夕は通勤電車のざわめきに身をまかせながら、本を読む。そうして皮膚感覚はいささか緊張させながら、息をととのえつつ、ゆっくり読む。」(p120)
ちなみに、この本の倉田卓次へと言及した箇所は一読忘れ難いのでした。
まあそれはそうとして、立ち机や坐ることなどへと興味は、あれこれと身体的な興味へと続くのでした。そういえば、このごろブログの更新をしないで、風邪をいいわけに、寝食にふけっておりました。
まず、この本「狐の読書快然」は、あとがきに
「日刊ゲンダイでの連載は、今秋、1000回目に達する。」とありました。
面白いのは、まるで雑誌の最後に掲載されてる編集後記みたいな文が、この本の書評群のはじめと、途中とにあるのでした。それが気になるのでした。何でだろう、そこに狐さんがいるからでしょうね。そこが気になるのでした。まえに「狐の書評」(本の雑誌社)というのがあり、その次に「野蛮な図書目録」(洋泉社)が出ておりました。
「野蛮な図書目録」は、最初に「序」がついておりまして、そのはじまりはこうでした。
「本は立って読む。夜、自室の出窓に小さなライトを置き、その前に立って読む。あらかじめ時間を区切っておいて、その時間内は立ちながら読むことに沈潜する。・・・」
さてっと、今回手に入れた「狐の読書快然」は、
狐さんの書評以外の文章が四つもあるのでした。
題名だけでも
「立って読む」
「躍れよ、感官」
「両手で書く」
「跳ねよ、鍵盤(キーボード)」
さっそく「立って読む」から引用していきましょう。
はじまりは「夜は竹踏みの上に立って本を読んでいる。自室の出窓の前である。・・・」
そして数ページあとにはこうあるのでした。
「立ちながら読むといっても、禁欲的にそうしているわけではない。むろん愉しみながらそうしている。立って読むことを『発見』したときには心機が高揚した。臆面もなくいえば、おそらくは四百万年ほど前、アフリカ大陸あたりで初めて直立したヒトが覚えたであろう感動の、何百分の一かの気分は味わったはずである。」
う~ん。ちょっと臆面もなく引用しすぎでしょうか。
でも、つぎのページはこうもあるのでした。
それは、加藤周一著『読書術』にある「読書は精神の仕事です」という箇所を四行ほど引用したあとに書かれておりました。
「私の考えはちがう。読書は身体の仕事です。身体を忘れるのではなくて、活字をたどりつつも身体を意識できる、ひいては身体に快を覚えさせるのが読書の理想ではないでしょうか。そして身体に快を覚えさせられるのは、楽な姿勢においてではなくて、身体に適度な緊張を与えることによってだろうと思います・・・」
そのつぎは、われら凡才も思わず拍手をしたくなる一節が続くのでした。
「なるほど、『端座書見(たんざしょけん)』などという言葉はとっくに死語である。おそらくそうした読書の姿勢を一つの模範としていた時代に対するリバウンドが、いまの『楽な姿勢で読む』という常識を生んでいるのだろう。・・・・じっさい『楽な姿勢』で本を読んでいると、私などはいつしか立ち上がって冷蔵庫の中に何か飲食するものを探しはじめたり、またはふと寝入ってしまったりする。寝食を忘れて本に没頭するどころか、逆に読書を忘れて寝食にふけってしまいかねないのである。情けないが、事実なのだから仕方がない。」
このあとに、安達忠夫著「素読のすすめ」からの引用がつづきます。
そこも興味深いのですが、そして、狐さんのあと三つの文も興味深いのですが、これくらいにして、「狐の読書快然」には、狐さんの1000回へと到達した書評、その間の、身体の「快」がどうやら取り上げられえて、俎上にのぼっているのだなあと思えるのでした。
狐さんが山村修氏だと、わかってから読んだ「遅読のすすめ」(新潮社)には、そういえば、「死語」が語られておりました。
「とっておきのお茶を淹れ、快適な椅子にすわり、お気に入りの音楽を聴きながら、おもむろに本を開き、くつろいだ読書の時間を味わう。そのような過ごしかたを、私はほとんど体験したことがない。私の部屋には、そもそも椅子がない。どうでもいいことだが、本を読むときには畳の上に正座である。机は卓袱台(ちゃぶだい)である。たぶん、くつろいだ読書を味わうにも才能が要るのだ。自分のまわりに快い要素を呼びあつめることのできる人、そうして心身を自在に休ませることのできる才能をもっている人だけが、日常的にゆったりくつろいで本を読むことができる。そうでない私は、夜は畳の上に正座して足をしびれさせながら、朝夕は通勤電車のざわめきに身をまかせながら、本を読む。そうして皮膚感覚はいささか緊張させながら、息をととのえつつ、ゆっくり読む。」(p120)
ちなみに、この本の倉田卓次へと言及した箇所は一読忘れ難いのでした。
まあそれはそうとして、立ち机や坐ることなどへと興味は、あれこれと身体的な興味へと続くのでした。そういえば、このごろブログの更新をしないで、風邪をいいわけに、寝食にふけっておりました。