和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

本の注文。

2010-12-09 | 短文紹介
地方に住んでいてですね。年上の方と本の話になると決まって、
その昔、新刊を手にいれるまでの日数の話題になるのでした
(たしか阿部勤也氏の本で、北海道にいる頃の話に、その苦労が語られていたと思います)。
まあ、それはそれとして、最近はありがたい。
新刊でさえ、その日に取り寄せられたりする。
まして、古本が居ながらにして注文できる不思議。
以前は新刊でも、すぐになくなるので、読まなくても買っておくという
そんな切実感がありました。ところが、ありがたいことに、最近は
本を読んでいて、そこに引用されている本が読みたくなると、
ネット古本検索で、いとも簡単に見つけられ、次の日には手元に届いたりする。
むろん、無い事もありますが、それは簡単にあきらめる(笑)。
読書の守備範囲が格段にひろがり、ありがたいと思っております。

それで、ついつい、ネット古本屋で、安い本を気安く注文することになります。
ですが、高い本はダメですね。ハードルが高い。
たとえば、5,000円の新刊は、最初からあきらめる。
たとえば、そう、柳田泉著「柳田泉文学遺産」の第二巻が1冊5040円。
この巻には、幸田露伴に関する文章があり、読んでみたいと思っていました。
けれども、5,000円は高い、3,000円でも高いのに。う~ん。
と、あきらめて、ふてくされて、忘れておりました。
ところがです。黒岩比佐子著「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)を読んだ時に
柳田泉の遺稿「村井弦斎『日の出島』について」が、まるで急所を押えるようにして引用されている。それでは、この遺稿は「柳田泉文学遺産」の何巻目に掲載されているのかと、検索してみると、なんと欲しかった第二巻に入っているではありませんか(笑)。
こうなると、鬼の首でも取った気分で、何はばかることなく注文。

そして、村井弦斎について書かれた遺稿の部分を読む。
でも、幸田露伴の箇所はちっとも読んでないのでした。
二巻を全部読んでから、何か書こうと思っていたのですが、
どうやら、興味がそれていきそうです。
ここはひとつ、柳田泉の遺稿についてだけでも備忘録を。



黒岩比佐子著「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)は2004年に出版。
「柳田泉の文学遺産」第二巻は2009年に出版。
さて、第二巻には解題がついており、その「村井弦斎『日の出島』について」では、こんな指摘がありました。

「ノンフィクションライターで村井弦斎の研究家でもある黒岩比佐子は「『食道楽』の人 村井弦斎」でこの文章を紹介し、『村井弦斎という小説家を一番よく理解し、正当に評価しようと努めていたのは柳田泉その人だったのではないか』と述べている。」(川村伸秀・解題p394)

つぎには、柳田泉氏の遺稿を、指摘した黒岩比佐子さんの本からの引用。


「・・・柳田は最初に、文壇の評価と読者の人気のギャップについて述べている。当時、世評では紅露逍鴎の四家を明治文学の代表のように言ったが、それは『文壇中心の話』であり、出た本の売れ行きからいえば浪六と弦斎の二家が圧倒的で、四家は全部合わせても二家中の一家の何分の一という程度だったという。・・・その浪六も弦斎も、文壇文学の立場からは共に大衆文学的なものと排されることが多い。だが、読んでみれば、そこには社会描写も、読者をひきつける趣向も、作者の理想の吐露もある。文壇文学に欠けた部分を補うものがある。やはり両方併せて時代相を見るべきだろう、と柳田は述べている。というのも、およそ文学とは作者と読者の両者で成り立っているものであり、『日の出島』に見られる弦斎の文学論は、『文壇には反対しているが、国民の頭の方は代表している』という。さらに、『今の文学史は大体において文壇史であり、従って弦斎の文学論などは一顧もされていない』のが現状だが、『文学史という文学史は必ず国民感情を反映しているはず』で、日本の文学史もいずれは、国民文学史となる。その時は弦斎の文学論も『当時の国民感情を語るものとして口をきくことになろう』と柳田は指摘する。その国民文学史に日が当たるであろう『将来のために』、柳田泉はあえて『日の出島』を取り上げたのだった。ここには、貴重な示唆が含まれていると思う。」(p147~148)

黒岩比佐子さんが「貴重な示唆が含まれていると思う」という、
その文を、私は5,000円だして読んだわけです。
こりゃあ、すこし感想でも書いておきましょう。
ということで、
以下は、あとで書き足します。
コメント
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