昨日の砂丘との関連になります。
「安房震災誌」に
「安房郡震災被害状況図」という手書きの地図があります。
ですが、その地図は、はぶいて解説だけを引用します。
その解説がp90~91に
「震度の大小は、本編の初めに掲ぐる被害地図によって明かなる如く、館山湾に沿った図に縦横線を以って示した八町村が、最も激震で、その震動の勢いは、内湾から、一直線に外洋に向って東走している。そしてこの八町村に隣接した町村がこれに次ぐのである。即ち図の横線の町村がそれである。図の縦線の町村は、概して丘陵の地で、震度は他に比してやや軽微であった。・・・・ことにその中でも、館山、北条、那古、船形の四町は市街地の為めであろう、死傷率が多い。」
この記述の箇所については、
「房総災害史」(千葉県郷土史研究連絡協議会編・昭和59年発行)の
君塚文雄氏の文では、こんなふうに触れられております。
「大正12年(1923)の関東大地震は房州に非常な災害をもたらした。中でも、北は船形山、那古山の線を東西に結ぶ山脚と、南は西岬から千倉へかけての山々を結ぶ山脚との間にある鏡ヶ浦(館山)地溝帯と呼ばれる地域の災害は激甚で、上治寅次郎氏によると、安房郡役所の調査に係る全住家に対する全壊、半壊住家の百分比は、旧国府村94%、旧稲都村81%、旧九重村93%、旧館野村96%、旧健田村95%、旧那古町98%、旧船形町93%、旧北条町96%、旧館山町99%にも達していた。」(p175)
この90%以上の旧町村が、
最初に引用した文の、
当時の八町村にあたります。
ちなみに、「安房震災誌」の中の、「人の被害」に、
西岬村の記述が、興味深い短文としてあります。
「本村の被害は西岬村山脈の南と北とで大なる差異がある。
即ち鏡浦に面したる方面には被害が最も多い。」(p92)
「安房震災誌」に
「安房郡震災被害状況図」という手書きの地図があります。
ですが、その地図は、はぶいて解説だけを引用します。
その解説がp90~91に
「震度の大小は、本編の初めに掲ぐる被害地図によって明かなる如く、館山湾に沿った図に縦横線を以って示した八町村が、最も激震で、その震動の勢いは、内湾から、一直線に外洋に向って東走している。そしてこの八町村に隣接した町村がこれに次ぐのである。即ち図の横線の町村がそれである。図の縦線の町村は、概して丘陵の地で、震度は他に比してやや軽微であった。・・・・ことにその中でも、館山、北条、那古、船形の四町は市街地の為めであろう、死傷率が多い。」
この記述の箇所については、
「房総災害史」(千葉県郷土史研究連絡協議会編・昭和59年発行)の
君塚文雄氏の文では、こんなふうに触れられております。
「大正12年(1923)の関東大地震は房州に非常な災害をもたらした。中でも、北は船形山、那古山の線を東西に結ぶ山脚と、南は西岬から千倉へかけての山々を結ぶ山脚との間にある鏡ヶ浦(館山)地溝帯と呼ばれる地域の災害は激甚で、上治寅次郎氏によると、安房郡役所の調査に係る全住家に対する全壊、半壊住家の百分比は、旧国府村94%、旧稲都村81%、旧九重村93%、旧館野村96%、旧健田村95%、旧那古町98%、旧船形町93%、旧北条町96%、旧館山町99%にも達していた。」(p175)
この90%以上の旧町村が、
最初に引用した文の、
当時の八町村にあたります。
ちなみに、「安房震災誌」の中の、「人の被害」に、
西岬村の記述が、興味深い短文としてあります。
「本村の被害は西岬村山脈の南と北とで大なる差異がある。
即ち鏡浦に面したる方面には被害が最も多い。」(p92)