握飯。
2013-11-08 | 地震
大正15年発行の「安房震災誌」に
握飯の箇所があるのでした。
「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から
焚出の握飯が沢山郡役所の庭に運ばれた。
すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、
握飯をうんと背負ひ込んで、
北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、
之を飢へた人々に分与したのであった。
又別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。
兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、
臭気鼻をつくといったありさまである。
そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに
疾病でも醸されては一大事だと気付いたので、
甚だ遺憾千萬ではあったが、
その日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。
ところが、われ鍋や、破れザルなどをさげた
力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
腐ったむすびがあるそうですが、
それを戴かして貰ひたい。と、いふのであった。
それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
郡当局も、此の光景を見せ付けられては、
流石に断らうとして、断はり兼ねたのであった。
そこで、郡当局は、斯うした面々に向って
『よく洗って更らに煮直してたべて下さい』と
条件付きで、寄贈品の握飯を分配してやった。
何という窮乏のさまであろう。何という悲哀であろう。
こうした米の欠乏は、大震動と殆ど同時に来た悲劇である。」(p260~261)
握飯の箇所があるのでした。
「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から
焚出の握飯が沢山郡役所の庭に運ばれた。
すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、
握飯をうんと背負ひ込んで、
北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、
之を飢へた人々に分与したのであった。
又別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。
兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、
臭気鼻をつくといったありさまである。
そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに
疾病でも醸されては一大事だと気付いたので、
甚だ遺憾千萬ではあったが、
その日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。
ところが、われ鍋や、破れザルなどをさげた
力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
腐ったむすびがあるそうですが、
それを戴かして貰ひたい。と、いふのであった。
それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
郡当局も、此の光景を見せ付けられては、
流石に断らうとして、断はり兼ねたのであった。
そこで、郡当局は、斯うした面々に向って
『よく洗って更らに煮直してたべて下さい』と
条件付きで、寄贈品の握飯を分配してやった。
何という窮乏のさまであろう。何という悲哀であろう。
こうした米の欠乏は、大震動と殆ど同時に来た悲劇である。」(p260~261)