大正11年2月15日郡立安房農業水産学校の創設が認可。
大正11年春。
郡役所の玄関の前の大きな辛夷がいっぱいに花をつけていた。
貴島憲は、安房郡長・大橋高四郎に電報で呼び出され、
はじめて、北條の郡役所を訪れ、その辛夷を目にする。
そこで、今度新たに文部省で制定された五ヶ年制実業学校について聞かされる。
と同時に、語る大橋郡長の「清新溌剌たる精神に感服」させられる。
この貴島憲氏については、
農学校の職員名簿によると、就任は大正11年3月8日。
出身学校は法科大學。
受持学科が「法、経、國漢地、歴」とある。
年齢が分からない。
「生れてはじめて先生に・・これからなろうといふばかりの私」
とあるけれども、また
「由来私は十数年来房州には極縁が深く43ヶ町村で足を入れた事のないのは一つもないという男で」ともある。これをどう考えればよいのか
(現在では知る人も少なく、どうも、出身は九州らしい)。
さて、大橋郡長と山下脇人先生(初代農学校の校長)と、敷地を見にゆくことになる。
貴島氏の感想はというと、
「この辺も両三回は通っているはずだが、南三原という土地にはどうも記憶がなかった。行って見て砂丘の上の農学校には驚いた。が何も模範農場を作るわけではないから、この粗剛雄健な自然は却って教育上宜しかろうと考えた。」
大正11年4月11日南三原村松田の仮校舎で授業を開始する。
大正11年4月26日房総南部に、やや大きい地震がある。
震源地は浦賀水道、規模はM6・9とされている。
君塚文雄氏(大正1年生まれ)の文には
「筆者も小学生の遠足の途次、那古町藤ノ木通りでこの地震に遭遇し、驚いて逃げまどった記憶が生々しい。当時の北条町では煉瓦造りの煙突が折れ、県下全体で全壊家屋8戸、破損771戸の被害があったといわれる。」(p174・「房総災害史」)
大正11年8月1日。最近調査の「北條館山市街図」が売られる。
売捌所北條町・松田屋書店、宮澤書店。となっております。
ちなみに、安房郡長・大橋高四郎氏は
「私が安房に赴任したのは、大正9年12月のことで、まだ郡制時代のことであった。大正12年9月の関東大震災は、それから丁度4年目のことである。」
と、「安房震災誌の初めに」で書き始めております。
大正11年春。
郡役所の玄関の前の大きな辛夷がいっぱいに花をつけていた。
貴島憲は、安房郡長・大橋高四郎に電報で呼び出され、
はじめて、北條の郡役所を訪れ、その辛夷を目にする。
そこで、今度新たに文部省で制定された五ヶ年制実業学校について聞かされる。
と同時に、語る大橋郡長の「清新溌剌たる精神に感服」させられる。
この貴島憲氏については、
農学校の職員名簿によると、就任は大正11年3月8日。
出身学校は法科大學。
受持学科が「法、経、國漢地、歴」とある。
年齢が分からない。
「生れてはじめて先生に・・これからなろうといふばかりの私」
とあるけれども、また
「由来私は十数年来房州には極縁が深く43ヶ町村で足を入れた事のないのは一つもないという男で」ともある。これをどう考えればよいのか
(現在では知る人も少なく、どうも、出身は九州らしい)。
さて、大橋郡長と山下脇人先生(初代農学校の校長)と、敷地を見にゆくことになる。
貴島氏の感想はというと、
「この辺も両三回は通っているはずだが、南三原という土地にはどうも記憶がなかった。行って見て砂丘の上の農学校には驚いた。が何も模範農場を作るわけではないから、この粗剛雄健な自然は却って教育上宜しかろうと考えた。」
大正11年4月11日南三原村松田の仮校舎で授業を開始する。
大正11年4月26日房総南部に、やや大きい地震がある。
震源地は浦賀水道、規模はM6・9とされている。
君塚文雄氏(大正1年生まれ)の文には
「筆者も小学生の遠足の途次、那古町藤ノ木通りでこの地震に遭遇し、驚いて逃げまどった記憶が生々しい。当時の北条町では煉瓦造りの煙突が折れ、県下全体で全壊家屋8戸、破損771戸の被害があったといわれる。」(p174・「房総災害史」)
大正11年8月1日。最近調査の「北條館山市街図」が売られる。
売捌所北條町・松田屋書店、宮澤書店。となっております。
ちなみに、安房郡長・大橋高四郎氏は
「私が安房に赴任したのは、大正9年12月のことで、まだ郡制時代のことであった。大正12年9月の関東大震災は、それから丁度4年目のことである。」
と、「安房震災誌の初めに」で書き始めております。