和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

餅の好きさうな賢治君。

2013-11-21 | 短文紹介
堀尾青史著「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)をひらく。
以前に買ってあったもの、そのままになっておりました(笑)。
大正の農学校という興味から、ひらいております。

年譜と補述とからなり、補述の部分が興味をひきます。
そこから、すこし引用(p130~)。

大正7年(1918)は、賢治が盛岡高等農林学校卒業した年。

「1918(大正7)年3月、高農本科を卒業し、研究科に残った賢治のもっとも重要なしごとは、稗貫(ひえぬき)郡の土性調査であった。
当時稗貫郡郡長であった葛博(くずひろし)――盛岡の人。稗貫、気仙沼郡長、盛岡市議をつとめる――が農業の振興、農村の富裕の基礎になる土地の性質をしらべねば何の品種を選び、何が適しているかはわからない。この土性調査の大辞典をつくって農民が自分の耕地条件をよく知り、適種適肥、自力自成、安心して農業を営めるようにしようというのが土性調査のねらいである。
この調査を依頼されたのが土壌学の権威である関豊太郎博士、先生のすいせんによって助教授神野幾馬、それに賢治。そして林業の調査を林科助教授である小泉多三郎がうけもつことになった。
稗貫郡は面積689・22平方キロ、東は早池峰山、西はなめとこ山、北は石鳥谷、南は花巻を中心とする山あり平野ありで、これを片っぱしからしらべあげるのであるから容易ではない。しかし賢治は、誠心誠意この仕事にうちこんだ。
葛博は、
――雨が降っても火が降っても嫌な顔を見せず盛り顔で
鼻筋の通った少しそつ歯で餅の好きさうな賢治君、
頭髪のやや薄く赤味ある髪の賢治君、
そして詰襟の黒服にへたな巻脚絆の賢治君、
いついかなる時でもにこにこしてゐる賢治君は
どこか競争試験でも受けるやうな熱心さ――
とその印象をしるしている。」

「郡長葛博は記す。
――賢治君に困った事はかく山野を跋渉して難儀して土性の調査に従事しながら旅費も弁当料も絶対に受取らず、暇で覚えた事で郡の為に働くことは当然だといふて不相変丸飯持参で働いてくれるのには余り気の毒で困り抜き候 勿論手当などは受取らずに終り申候――
この土性調査が稗貫郡、ひいては岩手県に非常に役立ったことは疑えない。今日もこれ以上の調査はできないのである。同時に賢治自身にも非常に役立ったことも争えない。後年肥料設計に奔走したとき、どこの土地はどうと、掌を指すようであったのもこの調査があったればこそである。また、否応なしに農民と接触がおこなわれたことも、町育ち、学校だけの賢治にはよい勉強であったにちがいない。休んだり泊ったり世話になったところに、法華経の印刷物をおいていったというのにも、信仰の厚さと布教者たろうとした一面があらわれている。」(p134~135)


うん。この本、補述が面白い。
私には、賢治の詩よりも面白い。
というか、詩の背景が、浮き彫りになってゆくような面白さ。
コメント
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