和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

砂丘列。

2013-11-14 | 地震
君塚文雄氏の地図につけたコメントのなかに、
「砂丘列」という言葉があります。

地図は「北条館山市街図」。
大正11年8月発行のもの。
そこに、コメントつけてあります。

「・・大地震前の館山市の中心部を知る上では貴重なものである。
右側が北条町で、海岸寄りの第一の砂丘列には、早大・旧一高・東京高師などの夏季寮があり、路線を越えた第二の砂丘列が、一番繁華な三軒町・六軒町の通りで、現在の国道127号線である。その東の第三の砂丘上の集落が古くからの役所町で、旧藩時代の陣屋跡に郡役所・町役場・警察署などがあり、現在も官庁街となっている。・・・」

農学校の創立五十周年記念誌を読んでいると、
この砂丘という言葉が、学校の創立時によく登場するのです。
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武隈親方。

2013-11-14 | テレビ
昨日は、
NHKの相撲放送を見ておりました。
今回停年をむかえる
黒姫山こと、武隈親方が
最初からアナウンサーと北の富士親方(?)と
ならんで、解説席におり。
本場所の間に、回想の名場面をところどころに
入れながら。
現在の武隈親方の解説をまじえながら・・・。
それが、本場所の解説と
回想の話がまじりあって、
見る甲斐がありました。

ああ、武隈親方はこんな人だったのだと
最後に知る事ができて、ありがたい企画でした。
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宮沢です。

2013-11-14 | 地域
そういえば、宮沢賢治は、農学校の教師をしていたなあ。

宮沢賢治の年譜によると

大正10年(1921)12月に稗貫(ひえぬき)農学校の教師となる。
大正11年    妹トシ死亡(24歳)
大正15年(1926)花巻農学校を退職。自炊生活を始める。
        羅須地人協会を設立。
昭和3年(1928) 病に倒れる。
昭和6年    病が治り、東北砕石工場の技師に招かれる
        9月、上京し、再び発病
昭和8年    9月21日永眠(37歳)


生徒の証言がありました。

「先生と初めて会ったのは、私は花巻の稗貫郡立稗貫農学校1年生、15歳でした。別の先生の欠員を埋めるのに来られたんですが、詰襟に丸刈りで風采が上がらない。『校長先生の紹介にあずかった宮沢です』としか言わない。
みんな『養蚕所を改良した教室しかない貧弱な学校だから、こんな先生しか来ないんだ』とがっかりしたんです。ところが、先生は45分の授業を30分で終わらせ、自分で作った童話を読んで聞かせるのです。当時、私らは童話なんて言葉をしらなかったが、それがとても素敵でね・・・『ああ、きょうも先生の話を聞けるんだ』と思いました。・・・」(照井謹二郎 東京新聞平成12年12月7日)

年譜には、この年に、「注文の多い料理店」「月夜のでんしんばしら」「どんぐりと山猫」「鹿踊りのはじまり」などを創作とあります。


大正11年(1922年)2月 宮沢賢治作詩、川村悟郎作曲「精神歌」出来る。
その年の11月27日、妹トシ死去。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書く。

 その宮沢賢治作詞の「精神歌」のはじまりは

 日は君臨しかがやきは
 白金の雨そそぎたり
 われらは黒き土に俯し
 まことの草のたねまけり

歌詞の一番を引用してみました。
ちなみに、ひらがなの箇所はみなカタカナです。
(宮沢賢治文庫全集4 文語詩未定稿より)


農学校の年譜は

1921年4月稗貫郡立稗貫農学校と改称する。
5月開校式挙行
12月宮沢賢治、稗貫農学校教諭となる。
1923年3月新校舎落成式
4月岩手県立花巻農学校と改称する。
1929年12月校歌を制定す。(作詞:土井晩翠、作曲:片山頴太郎)

とあります。
農学校の正式の校歌が出来るまえまでは、
賢治の「精神歌」が、ごく自然に生徒によって
「農学校歌」として歌われていたのでしょうね。
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