尋常高等小学校編纂という震災誌がありました。
関東大震災のあとに出たもので、あとがきにこうあります。
「・・これが被災後わずか十か月で発行されたことに、驚異と畏敬の念を禁じえない。原本は手書きのガリ版刷りで、印刷された和紙は二つ折りにして、こよりで綴じられている。そのコピーは館山市図書館に納められている。ただ、印刷が不明瞭の箇所が多く、通読は困難な故、改定版を出すことを思いたった。 ・・・・2012年新春 」
編集・発行人は田村シルト芳子。とあります。
町全体の動向を日々に印しておりますが、
ここでは、小学校について書かれている箇所を引用。
「校舎の倒壊及び校具の破損により、全く授業をなすこと能わず。而して家庭の被害の為、登校する児童、またほとんどなし。然れ共、そのままに過ぐべきにあらず、町民大多数も児童の集合授業開始を希望するに至りしかば、早くも九月十三日、震災各町村に先んじ、野外にて兎にも角にも授業を開始す。爾来、復興に努めつつ今日に至る。」(p10~11)
「職員は、震災の翌日より数里の遠方より出勤。まず死亡児童の家庭の慰問、負傷児童の見舞い、家庭訪問、これに費やす日数三日間、全壊校舎の取り片付け、運動場の整理、机、腰掛の応急修理、これに要する日数八日間。九月十三日初めて児童召集、露天教授の開始をなせり。船形公園、海辺の砂上の曳船の陰等、算術の声、読方の声、今なお記憶に新たにして、光景の眼前にちらつく心地す。
最も困難なるは、就学するに着るに着物なく、習うに教科書なしという次第にして、同情深き同胞の給与品、児童全部に教科書の配給、衣類を児童に着せしめ見送る教師、そぞろに感涙を催す。この情込めたる慰問品いかに、かの小さな児童の胸に響を与えしならん。・・・・」(p49)
関東大震災のあとに出たもので、あとがきにこうあります。
「・・これが被災後わずか十か月で発行されたことに、驚異と畏敬の念を禁じえない。原本は手書きのガリ版刷りで、印刷された和紙は二つ折りにして、こよりで綴じられている。そのコピーは館山市図書館に納められている。ただ、印刷が不明瞭の箇所が多く、通読は困難な故、改定版を出すことを思いたった。 ・・・・2012年新春 」
編集・発行人は田村シルト芳子。とあります。
町全体の動向を日々に印しておりますが、
ここでは、小学校について書かれている箇所を引用。
「校舎の倒壊及び校具の破損により、全く授業をなすこと能わず。而して家庭の被害の為、登校する児童、またほとんどなし。然れ共、そのままに過ぐべきにあらず、町民大多数も児童の集合授業開始を希望するに至りしかば、早くも九月十三日、震災各町村に先んじ、野外にて兎にも角にも授業を開始す。爾来、復興に努めつつ今日に至る。」(p10~11)
「職員は、震災の翌日より数里の遠方より出勤。まず死亡児童の家庭の慰問、負傷児童の見舞い、家庭訪問、これに費やす日数三日間、全壊校舎の取り片付け、運動場の整理、机、腰掛の応急修理、これに要する日数八日間。九月十三日初めて児童召集、露天教授の開始をなせり。船形公園、海辺の砂上の曳船の陰等、算術の声、読方の声、今なお記憶に新たにして、光景の眼前にちらつく心地す。
最も困難なるは、就学するに着るに着物なく、習うに教科書なしという次第にして、同情深き同胞の給与品、児童全部に教科書の配給、衣類を児童に着せしめ見送る教師、そぞろに感涙を催す。この情込めたる慰問品いかに、かの小さな児童の胸に響を与えしならん。・・・・」(p49)