古本購入の新月通正著「親鸞の旅」(法蔵館)。
そのはじまりをひらくと、こうありました。
「愚禿(ぐとく)親鸞ーーその名を教えてくれたのは、
確か、中学校の歴史の先生であった。
太平洋戦争のさなか、旧制高校生のころ、
文科系の連中が、片時も手を離しがたくしていたのは、
西田幾多郎博士の『善の研究』と、
あの『歎異抄』だったような記憶が残っている。
戦後、しばらく京都に住み、ご多分にもれず古寺巡礼をこころみて、
東西両本願寺に親鸞の法灯を訪ねたりした。
東本願寺の外堀をぶらついていると、
アメリカ空軍機が誤って爆弾を落した跡だ、
とえぐれた大きな穴を指す人がいた。・・・・」
と、ここで私はつまづき、先を読み進めない(笑)。
太平洋戦争と歎異抄といえば、そういえば、
と司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋)を
本棚からとりだしてくる。
「学生時代の私の読書」と題した小文。
そこに、歎異抄が出てくる箇所がある。
「・・・・やがて、学業途中で、兵営に入らざるを
えませんでした。にわかに死についての覚悟を
つくらねばならないため、岩波文庫のなかの
『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。
・・・『歎異抄』の行間のひびきに、
信とは何かということを、
黙示されたような思いがしました。
むろん、信には至りませんでしたが、
いざとなって狼狽することがないような
自分をつくろうとする作業に、
多少の役に立ったような気がしています。
みじかい青春でした。あとは、軍服の生活でしたから。
ただ軍服時代二年間のあいだに、
岩波文庫の『万葉集』をくりかえし読みました。
『いわばしる たるみのうへの さわらびの
もえいづるはるに なりにけるかも』
この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、
死に直面したその時期に、
心をつねに拭きとる役目をしてくれました。」
せっかく本棚から司馬さんの本を持ってきたので
ついでに、数冊を取り出していました。
司馬さんと林屋辰三郎対談『歴史の夜咄』。
その「フロンティアとしての東国」のなかで
司馬】 『歎異抄』の成立が東国ですね。
『歎異抄』という優れた文章日本語をあの時代に持って、
いまでも持っているというのは、
われわれの一つの幸福ですね。
非常に形而上的なことを、あの時代の話し言葉で
語られたというのは坂東人の偉業だったと思いますね。
(p171・小学館ライブラリー)
もう一冊は
梅棹忠夫編著「司馬遼太郎との対話 日本の未来へ」(NHK出版)
そこに「司馬遼太郎さんとわたし」という
梅棹さんへのインタビューが載っておりました。
そこからも、引用。
梅棹】 非常に思いやりがある。
個人的にもそういう場面が何度かありました。
私が目が見えなくなったというのに、彼は手紙をくれるんです。
『完全に失明したんじゃない。少し見えているらしい』
というので、手紙の字が五センチ角ぐらいの大きな字で
書いてある。あれはちょっと感激しました。それでも
私には見えなかったですけれどもね。大きく書けば
読めるかと彼は思ったんでしょう。
愛情を感じましたなあ。
梅棹】 やっぱり、思いがこもっているんですよ。
ひとつはね、こういうことがあったんです。
今西錦司先生が92歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、
司馬さんからすぐ手紙が来て、
『これぞまことの文学』というほめ言葉で
激賞してもらった。そういうことがあった・・・・
(~p214)
つぎは「これぞまことの文学」を読む番。
中央公論1992年8月号の
「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」を、
あらためて、読まなきゃ。
そのはじまりをひらくと、こうありました。
「愚禿(ぐとく)親鸞ーーその名を教えてくれたのは、
確か、中学校の歴史の先生であった。
太平洋戦争のさなか、旧制高校生のころ、
文科系の連中が、片時も手を離しがたくしていたのは、
西田幾多郎博士の『善の研究』と、
あの『歎異抄』だったような記憶が残っている。
戦後、しばらく京都に住み、ご多分にもれず古寺巡礼をこころみて、
東西両本願寺に親鸞の法灯を訪ねたりした。
東本願寺の外堀をぶらついていると、
アメリカ空軍機が誤って爆弾を落した跡だ、
とえぐれた大きな穴を指す人がいた。・・・・」
と、ここで私はつまづき、先を読み進めない(笑)。
太平洋戦争と歎異抄といえば、そういえば、
と司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋)を
本棚からとりだしてくる。
「学生時代の私の読書」と題した小文。
そこに、歎異抄が出てくる箇所がある。
「・・・・やがて、学業途中で、兵営に入らざるを
えませんでした。にわかに死についての覚悟を
つくらねばならないため、岩波文庫のなかの
『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。
・・・『歎異抄』の行間のひびきに、
信とは何かということを、
黙示されたような思いがしました。
むろん、信には至りませんでしたが、
いざとなって狼狽することがないような
自分をつくろうとする作業に、
多少の役に立ったような気がしています。
みじかい青春でした。あとは、軍服の生活でしたから。
ただ軍服時代二年間のあいだに、
岩波文庫の『万葉集』をくりかえし読みました。
『いわばしる たるみのうへの さわらびの
もえいづるはるに なりにけるかも』
この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、
死に直面したその時期に、
心をつねに拭きとる役目をしてくれました。」
せっかく本棚から司馬さんの本を持ってきたので
ついでに、数冊を取り出していました。
司馬さんと林屋辰三郎対談『歴史の夜咄』。
その「フロンティアとしての東国」のなかで
司馬】 『歎異抄』の成立が東国ですね。
『歎異抄』という優れた文章日本語をあの時代に持って、
いまでも持っているというのは、
われわれの一つの幸福ですね。
非常に形而上的なことを、あの時代の話し言葉で
語られたというのは坂東人の偉業だったと思いますね。
(p171・小学館ライブラリー)
もう一冊は
梅棹忠夫編著「司馬遼太郎との対話 日本の未来へ」(NHK出版)
そこに「司馬遼太郎さんとわたし」という
梅棹さんへのインタビューが載っておりました。
そこからも、引用。
梅棹】 非常に思いやりがある。
個人的にもそういう場面が何度かありました。
私が目が見えなくなったというのに、彼は手紙をくれるんです。
『完全に失明したんじゃない。少し見えているらしい』
というので、手紙の字が五センチ角ぐらいの大きな字で
書いてある。あれはちょっと感激しました。それでも
私には見えなかったですけれどもね。大きく書けば
読めるかと彼は思ったんでしょう。
愛情を感じましたなあ。
梅棹】 やっぱり、思いがこもっているんですよ。
ひとつはね、こういうことがあったんです。
今西錦司先生が92歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、
司馬さんからすぐ手紙が来て、
『これぞまことの文学』というほめ言葉で
激賞してもらった。そういうことがあった・・・・
(~p214)
つぎは「これぞまことの文学」を読む番。
中央公論1992年8月号の
「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」を、
あらためて、読まなきゃ。