和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

もう一度探し出したぞ。

2017-06-26 | 詩歌
「本を書くためには
蚕が桑の葉を必要とするように
本が必要です。」(p49)

これは、雑誌WILL2008年2月号の対談での
渡部昇一氏の言葉。

「隙間の時間の使い方ということについて言えば、
私は待ち時間に何かを書く仕事はしません。
ひたすら本を読むか、昼寝をするだけです。
と言うのは、書く仕事には常に確認作業が必要に
なるからです。資料となる本、確認するために必要な本
のすべてが家にあります。」(p41)


これは、林望氏との対談「知的生活楽しみのヒント」(PHP)
にある渡部氏の言葉。
同じ本に、こんな箇所がありました。


「ハマトンは『知的生活』という本の中で、
溶鉱炉で鉄が溶けるまで熱するように、
頭を徹底的に使って白熱させてはじめて
書けるようになると言っています。
したがって、溶鉱炉の火を途中で
消してはいけないように、
書く作業も中断してはいけない。
そして、書くときは目の前に
無限の時間があるという感覚がなければ、
頭を白熱させられないとも言う。
私もそうだと思います。
次の予定を気にしながらではものは書けません。」(p44)

残念、私はハマトン著「知的生活」の
この指摘の箇所を探せませんでした。
どなたかご存知でしょうか?

とりあえず、先の雑誌の対談から
この箇所も引用。

「『知的生活』を書いたP・G・ハマトンから
ヒントを得たのですが、ハマトンは仕事がのるまで
時間がかかると言います。
これは溶鉱炉みたいなもので、
鉄を溶かすためにせっかく高温にしていても、
夜が来たからといって溶鉱炉を止めてしまうと、
一気に冷めてしまって使い物になりません。
また、鉄を溶かす温度まで上げようと思ったら
ものすごくエネルギーがいります。
ですから、溶鉱炉の温度が上がったら
鉄ができるまで一気に片づけてしまったほうがいい。
・・・」(p52)


渡部昇一著「ヒルティに学ぶ心術」(到知出版社)には

「私の場合、仕事をはっきり二つに分けています。
私は特に論文などを書く時は、それこそ絶対に
広大無辺な時間を持たなければ駄目だと思っています。
二時間後に何か予定があると思うと、
やっていても時間が気になります。・・・
たとえば本を読むのは断片的な時間がいい、
待たされている時間がいい。というのは、
本と言うのは、長く読んだからといって、
そうそう頭に入るものではありません。
私の場合・・・
本を読む時間に断片的な時間を使います。
仕事の違いによって、断片的な時間をたくさん
使ってうまくこなしていくのと、
大きく取った時間を使うのと、
意識して分けてやるべきではないかと思います。」
(p205~206)


断片的というと、p209にヒルティの言葉を引用して
おりました。

「・・・・体系的網羅的なものは、だいたい嘘である。
と言うのは、もしもこのことを確かめたいと思うならば、
どの科学の分野でもいいから、二十年前に書かれた
もっとも有名な体系的な教科書を見てみよ。
もう読むに耐えないではないか。だから、
体系的なものはおおむね虚偽である。
長続きするものはおおむね偶発的である。」

このあとp210で渡部昇一氏はこうつづけます。

「こういう信念があったから、
ヒルティは断片的なものを書いているわけです。
日本のほうで言えば、日本の古典には徹底的に
断片的なものが多い。和歌などというのは断片中の断片です。
俳句もそうです。芭蕉でも蕪村でも、ああいう短詩型のものは、
体系的な本は全く読まれなくなっても、読まれます。
『徒然草』のようなエッセイもそうです。
『論語』などもやはり聞き書きで・・・
これは、私は読書においてもしばしば
自分の教訓として得したことです。」


断片と、無限の時間といえば、
私に思い浮かんだのは、
ポエムと、永遠。
ということで
ランボーの詩「永遠」を引用。

 たうとう見つかったよ。
 なにがさ?永遠といふもの。
 没陽といっしょに、
 去ってしまった海のことだ。

 これは金子光晴の訳詩。
 では、堀口大学の訳詩は


  永遠
 
 もう一度探し出したぞ。
 何を? 永遠を。
 それは太陽と番(つが)った
 海だ。

 待ち受けている魂よ、
 一緒につぶやこうよ
 空しい夜と烈火の昼の
 切ない思いよ。

 ・・・・


うん。私には、
何やら、溶鉱炉の詩に思えてきます。
コメント (2)
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