「編集者 齋藤十一」の最後の方に、
美和夫人の談話が掲載されていました。
そこに、『週刊新潮』の創刊準備室を、
語っている箇所があるのでした。
「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、
表紙に関することを担当していました。
どのような表紙にするか、試行錯誤が続きました。
・・・『やっぱり絵にしよう』と
そのころ若手から中堅の位置にあった
高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに
描いていただこうと考えたのですが、
これもなかなかうまくいかない。
そんなとき齋藤が『こんな人がいるよ。
研究してみる価値はあるんじゃないか』
と教えてくれたのが、おりしも
第一回文藝春秋漫画賞を受賞した
ばかりの谷内六郎さんでした。」(p280~281)
うん。この箇所が気になっておりましたので、
この機会に、文藝春秋新社「谷内六郎画集」を
古本で注文、それが届く。昭和30年12月印刷発行。
そこには伊藤逸平の「谷内六郎の人と作品」
という24頁の文が最後に掲載されておりました。
うん。知らないことばかりでしたので引用。
「文藝春秋の漫画読本に始めて『行ってしまった子』
という十点の作品が色刷で発表されたのは
1955年の早春だったが、それまでは、
谷内六郎といったって誰も知っている人はいなかった。
この一連の作品が発表されるや、ジャーナリズムは、
谷内君の画業について強い関心を持ち始め、・・
続いて、やはり文藝春秋の第一回漫画賞の受賞者として
決定、各新聞にその記事が発表され、ここに
漫画家谷内六郎の名は完全に人々の脳裏に刻みつけられたのだが、
その漫画賞の受賞が確定するとほとんど同時の
6月27日の夜、谷内君は、ナイフで自らの左腕の
動脈や静脈をメチャクチャに傷つけ自殺を計ったのであった。」
うん。伊藤逸平氏の24頁は、その経緯を書いておりました。
最後の、「あとがき」は谷内六郎本人が書いております。
ここに、「あとがき」の全文を引用。
「病中描きだめ、一枚一枚棚につんでいったこの絵が
画集になるとは夢みたいで、自分の絵だと思えません。
画集を編集して下さった伊藤先生にご迷惑をかけつづけ
申訳ないと思っています。又、皆さんにご迷惑をかけた
ことを申訳ないと思います。
皆様の御親切にむくいる唯一の方法は、
今後十年、二十年、生きる限り、少しでもよい漫画が
描けるように勉強する以外にありません。
ぼくは漫画のことを考えると、いつも希望がひろがります。
少年の日、(パーッとしない少年でしたが)少年の日、
あの夏の陽の強い海辺の砂の上に、
棒を拾って何百となく描いた、
ポパイ、のらくろ、フクチャン、ドナルドダッグ、
波はとどろいていて空はセルリアンブルーで、
たしかに希望の色でありました。
昭和30年10月 原宿らくだ工房にて 谷内六郎 」
その翌年
1956年(昭和31年)2月、「週刊新潮」創刊。
創刊号の谷内六郎はというと、
房州御宿の海を背景にして描かれた表紙絵。
美和夫人の談話が掲載されていました。
そこに、『週刊新潮』の創刊準備室を、
語っている箇所があるのでした。
「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、
表紙に関することを担当していました。
どのような表紙にするか、試行錯誤が続きました。
・・・『やっぱり絵にしよう』と
そのころ若手から中堅の位置にあった
高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに
描いていただこうと考えたのですが、
これもなかなかうまくいかない。
そんなとき齋藤が『こんな人がいるよ。
研究してみる価値はあるんじゃないか』
と教えてくれたのが、おりしも
第一回文藝春秋漫画賞を受賞した
ばかりの谷内六郎さんでした。」(p280~281)
うん。この箇所が気になっておりましたので、
この機会に、文藝春秋新社「谷内六郎画集」を
古本で注文、それが届く。昭和30年12月印刷発行。
そこには伊藤逸平の「谷内六郎の人と作品」
という24頁の文が最後に掲載されておりました。
うん。知らないことばかりでしたので引用。
「文藝春秋の漫画読本に始めて『行ってしまった子』
という十点の作品が色刷で発表されたのは
1955年の早春だったが、それまでは、
谷内六郎といったって誰も知っている人はいなかった。
この一連の作品が発表されるや、ジャーナリズムは、
谷内君の画業について強い関心を持ち始め、・・
続いて、やはり文藝春秋の第一回漫画賞の受賞者として
決定、各新聞にその記事が発表され、ここに
漫画家谷内六郎の名は完全に人々の脳裏に刻みつけられたのだが、
その漫画賞の受賞が確定するとほとんど同時の
6月27日の夜、谷内君は、ナイフで自らの左腕の
動脈や静脈をメチャクチャに傷つけ自殺を計ったのであった。」
うん。伊藤逸平氏の24頁は、その経緯を書いておりました。
最後の、「あとがき」は谷内六郎本人が書いております。
ここに、「あとがき」の全文を引用。
「病中描きだめ、一枚一枚棚につんでいったこの絵が
画集になるとは夢みたいで、自分の絵だと思えません。
画集を編集して下さった伊藤先生にご迷惑をかけつづけ
申訳ないと思っています。又、皆さんにご迷惑をかけた
ことを申訳ないと思います。
皆様の御親切にむくいる唯一の方法は、
今後十年、二十年、生きる限り、少しでもよい漫画が
描けるように勉強する以外にありません。
ぼくは漫画のことを考えると、いつも希望がひろがります。
少年の日、(パーッとしない少年でしたが)少年の日、
あの夏の陽の強い海辺の砂の上に、
棒を拾って何百となく描いた、
ポパイ、のらくろ、フクチャン、ドナルドダッグ、
波はとどろいていて空はセルリアンブルーで、
たしかに希望の色でありました。
昭和30年10月 原宿らくだ工房にて 谷内六郎 」
その翌年
1956年(昭和31年)2月、「週刊新潮」創刊。
創刊号の谷内六郎はというと、
房州御宿の海を背景にして描かれた表紙絵。