和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「ぼくは漫画のことを考えると」

2018-12-21 | 道しるべ
「編集者 齋藤十一」の最後の方に、
美和夫人の談話が掲載されていました。

そこに、『週刊新潮』の創刊準備室を、
語っている箇所があるのでした。

「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、
表紙に関することを担当していました。
どのような表紙にするか、試行錯誤が続きました。
・・・『やっぱり絵にしよう』と
そのころ若手から中堅の位置にあった
高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに
描いていただこうと考えたのですが、
これもなかなかうまくいかない。
そんなとき齋藤が『こんな人がいるよ。
研究してみる価値はあるんじゃないか』
と教えてくれたのが、おりしも
第一回文藝春秋漫画賞を受賞した
ばかりの谷内六郎さんでした。」(p280~281)

うん。この箇所が気になっておりましたので、
この機会に、文藝春秋新社「谷内六郎画集」を
古本で注文、それが届く。昭和30年12月印刷発行。

そこには伊藤逸平の「谷内六郎の人と作品」
という24頁の文が最後に掲載されておりました。

うん。知らないことばかりでしたので引用。

「文藝春秋の漫画読本に始めて『行ってしまった子』
という十点の作品が色刷で発表されたのは
1955年の早春だったが、それまでは、
谷内六郎といったって誰も知っている人はいなかった。
この一連の作品が発表されるや、ジャーナリズムは、
谷内君の画業について強い関心を持ち始め、・・
続いて、やはり文藝春秋の第一回漫画賞の受賞者として
決定、各新聞にその記事が発表され、ここに
漫画家谷内六郎の名は完全に人々の脳裏に刻みつけられたのだが、
その漫画賞の受賞が確定するとほとんど同時の
6月27日の夜、谷内君は、ナイフで自らの左腕の
動脈や静脈をメチャクチャに傷つけ自殺を計ったのであった。」

うん。伊藤逸平氏の24頁は、その経緯を書いておりました。
最後の、「あとがき」は谷内六郎本人が書いております。
ここに、「あとがき」の全文を引用。

「病中描きだめ、一枚一枚棚につんでいったこの絵が
画集になるとは夢みたいで、自分の絵だと思えません。
画集を編集して下さった伊藤先生にご迷惑をかけつづけ
申訳ないと思っています。又、皆さんにご迷惑をかけた
ことを申訳ないと思います。
皆様の御親切にむくいる唯一の方法は、
今後十年、二十年、生きる限り、少しでもよい漫画が
描けるように勉強する以外にありません。
ぼくは漫画のことを考えると、いつも希望がひろがります。
少年の日、(パーッとしない少年でしたが)少年の日、
あの夏の陽の強い海辺の砂の上に、
棒を拾って何百となく描いた、
ポパイ、のらくろ、フクチャン、ドナルドダッグ、
波はとどろいていて空はセルリアンブルーで、
たしかに希望の色でありました。

  昭和30年10月 原宿らくだ工房にて 谷内六郎 」



その翌年
1956年(昭和31年)2月、「週刊新潮」創刊。
創刊号の谷内六郎はというと、
房州御宿の海を背景にして描かれた表紙絵。

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夢は、雑誌をかけめぐる。

2018-12-21 | 先達たち
「編集者 齋藤十一」(冬花社)を、取り出してきてめくる。
追悼文が並ぶ本なので、ボケっとして見過ごしている箇所が
読み直すとでてくる(笑)。

今回は齋藤十一の晩年ということで気になった箇所、

石井昴氏の「タイトルがすべて」と題した文には

「齋藤さんの一言一言が編集者としての私には
血となり肉となった。我田引水になるが、
新潮新書の成功は新書に齋藤イズムを取り入れた事
によるといって過言ではない。
『自分の読みたい本を作れ』『タイトルがすべてだ』
私はいま呪文のようにそれを唱えている。」

こう書いた人には、こんな箇所がありました。

「齋藤さんに最後にお目にかかったのは
お亡くなりになる半年前だった。
・・・鎌倉の行きつけの店まで食事に行った。
・・・・『俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ』」

早川清氏の「最後の企画」という文には

「亡くなる五ヵ月前に・・・ある企画のタイトルだった。
『どうだ、読みたくなるだろう』
齋藤さんが自信に満ちた口ぶりで語った『最後の企画』。
・・・」



坂本忠雄氏の「編集という天職」には

「葬儀の際の美和夫人の会葬者への謝辞によれば
『きのうの夢で新しい雑誌をつくった、
 題名も目次のタイトルも全部出来たが、
 もう実現することが出来ないから内容は言わない』と、
或る日齋藤さんは口にされたとのこと。
私はそれを聞きながら、齋藤さんにとって
編集という仕事は本当に天職だったんだな、
と身内に戦慄するような感動が走り抜けたのを
ありありと覚えている。」


うん。谷内六郎さんが最期の企画の表紙絵を描くなら、
雑誌の上を、かけめぐる小さな齋藤さんが十一人いて、
雑誌の目次の上でぐるぐると走っている絵を描く(?)。



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AI vs. 子どもたち。

2018-12-21 | 書評欄拝見
書評を読んでもすぐに忘れちゃう。
本を読んでもすぐに忘れる。
それでも、本は本棚に残る。

今年は
新井紀子著「AI vs.教科書が読めない子どもたち」(東洋経済)
を購入したのでした。何となく、パラパラ読み(笑)。

書評に興味を持ちました。
産経新聞4月15日助川幸逸郎氏の書評でした。

あと、月刊雑誌に佐久間文子さんが書評をあげていた
(もう、どの雑誌だったか忘れている)。

うん。教育関係者の間では、新井紀子さんというのは
よく知られた方のようです。そうお聞きしました。

はい。新刊購入してパラパラ読みしたあと、
年末には、しっかり忘れておりました(笑)。

そうしていると、雑誌Voice平成31年1月号。
ここに、山本七平賞の発表が掲載されてます。
なんと、新井紀子氏の、この本が受賞。

その選評から、すこし引用。

呉善花さんは

「数学者であり、人工知能の専門家である著者が、
具体的なプロジェクトを通してはっきり論じきった意義は大きい。
そこで問題となるのが、『AIにはできなくて、人間にしかできない
仕事をする能力とは何か』であり、著者はそれを
『文章の読解能力』だとする。・・・
同じ読解力でも、文脈・背景・行間など、
言外の(言葉では言っていない)意味を
読み解く能力はAIにはなく、人間にしかない。・・」

中西輝政氏は

「従来、AIに限らずIT問題全般に関して、
一般読者を対象として書かれた本の多くは、
本書のような原理的な深さをしっかりと保ったまま、
多くの読者が巻末まで変わらぬ『とっつきやすさ』で
読破できるような作品は皆無だったように思う。
しかし本書の最大の功績は、『教科書を読めない人間』
がAIには到底(つまり原理的に)望み得ない豊かで
ヒューマンな精神活動ができる
―――それゆえに教科書が読めないのだが―――
ことの素晴らしさを、反面から教えてくれていることだ。」

養老孟司氏は

「・・・第二はコンピュータという機械の解説にとどまらず、
子どもたちに実際に問題を解かせて、
結果をAIと比較したことである。
そう述べるのは簡単だが、これはじつは大変な作業である。
現代社会の実際を『測る』のは、多くの人が嫌う。
手間がかかって、その割には反論されることが多い。
むしろ大上段から原則論を述べたほうが楽である。
新井さんはその面倒な作業をきちんと遂行した。
私自身はそこを大きく評価したい。
その結論はじつに興味深く、示唆するところが大きい。
たとえば新井さんのいう『読解力』は、
言語を用いた単純な論理作業だと思うが、
これが中学生段階で伸びる、という指摘である。
統計的には高校生ではもう伸びない。・・・」


中西輝政氏選評の最後の一行が印象深い。

「山本七平賞にふさわしい作品として高く評価したい。」


ああ、私は今年、何を読んでいたのだろう(笑)。
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