和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

小林秀雄の夢の中の「齋藤十一論」。

2018-12-16 | 本棚並べ
「編集者齋藤十一」(冬花社)の
はじめの方に、佐野眞一が「伝説の編集者」と題して
書いておりました。そのなかにこんな箇所。

「齋藤と同じ鎌倉に住み、鶴岡八幡宮につづく小町通りの
『奈可川』という小料理屋でよく酒席を共にした小林秀雄は、
生前、『君がもし僕より先に死んだら、僕は君のことを書くからね』
と言っていたが、小林の方が先に亡くなったため、
小林による齋藤十一論という夢のような企画は、
結局、日の目を見ずに終わった。
ちなみに『新潮』元編集長の坂本忠雄によれば、小林は
『齋藤さんは天才だ。自分の思ったことをとことん通してしまう。
キミ、それこそ天才じゃないか』と常々言っていたという。」

佐野氏は、こうして齋藤十一氏本人に会いにゆく。

「有体(ありてい)に言えば、生身の齋藤を死ぬ前に一目だけでも
じっくり観察する機会をつくっておきたかった。
何よりも齋藤を、伝説の人として終らせたくなかった。
私の目に映ったありのままの齋藤を活字で伝えることこそ
『週刊新潮』創刊時、編集方針を人間の色と欲と見定め、
人間の本性を暴きつづけてきた齋藤の考えにも適うことだと思った。」


以下、ポツポツと引用。

「『僕の特集記事をやったって、売れやしませんよ。
いまでも『週刊新潮』に企画のアドバイスをしているのかって
お尋ねですか?それは言えません。企業秘密です』」

「美和夫人によれば、齋藤が生涯のライバルとして
認めていた編集者は、『文藝春秋』を国民雑誌といわれる
までに育てあげた池島信平ひとりだったという。・・・」

そして、この文章をこう締めくくっておりました。

「『俺は週刊誌で文学をやっている』と揚言し、
天才編集者の名をほしいままにしてきた齋藤は、
鮮やかな最期を遂げてなお、『生ける伝説』でありつづけている。」

え~と。
小林秀雄と編集ということでは、
大谷晃一著「ある出版人の肖像」のp264の
小林秀雄は激怒して言った言葉があり、

谷沢永一・渡部昇一著「人間は一生学ぶことができる」(PHP)の
こんな箇所もある。

「・・そのときの小林秀雄は、大家になる前ですからね。
小林秀雄をあれだけ大きくしたのは、新潮社の齋藤十一です。
齋藤は大正十一年生まれなので、名前が十一というのだそうですが、
これは戦後の屈指の名編集者で、新潮社の天皇と言われた。
この人が売れていない小林秀雄を大きく扱った。
そこから小林が大きな存在になっていくのです。
小林秀雄はあのとき、文壇とかジャーナリズムの世界に対して
一切媚態を示さない、時代の波に乗ろうとしないという姿勢を、
少なくとも活字の上ではっきりと残した。
前後を見渡して、これほど明瞭に示した人はありません。」
(p63)

これは谷沢永一の言葉でした。

話はかわりますが(笑)、
古本で購入した新潮文庫版「谷内六郎展覧会 夢」は、
カバーもきれいで帯付き。ぱらりとめくると、
新刊のパンフも挟まっておりました。
そのパンフは
「新潮45+」’82創刊号とあり
「新しい月刊誌誕生!」「3月29日創刊」とあります。

齋藤十一は2000年(平成12年)12月28日死去。享年86。
そして、新潮社の天皇と呼ばれた人がお隠れになってから
2018年(平成30年)に、「新潮45」休刊。

ちなみに、生涯のライバルはというと、
池島信平は1973年(昭和48年)2月13日死去。64歳。
そして、文藝春秋「諸君!」は2009年6月号が最終号。
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