古本でも値段が張るのを、時には買っております。
はい。それが何か賭け事でもしている気分となり、
私なりのストレス解消法となっている気がします。
まあ、そうして自分に言い聞かせております(笑)。
昨日届いたのが、芳賀徹著「きのふの空」
今日届いたのが、
芳賀徹著「詩の国 詩人の国」
芳賀徹著「与謝蕪村の小さな世界」
芳賀徹著「絵画の領分」
潁原退造編「蕪村全集」全(有朋堂書店・大正14年)
このなかで、一番高価だったのは
「蕪村全集」全で4000円+送料520円=4520円。
これは昭和4年の再版本です。
ひらくと、蕪村全集には芥川龍之介の序文がある。
そのはじまりは、
「わたしはあなたの蕪村全集を人一倍切に待ってゐます。」
・・・
・・・・・・・わたしはあなたの蕪村全集を得たらば、
かう言ふ智的好奇心の為に夜長をも忘れるに違ひありません。
それは智慧の輪と言ふ玩具を貰った子供の喜びと同じことであります。」
へ~。とこんな序文を読んでから、
私はすぐに読むわけでもなく、本棚に納めます。
さてっと、今回引用しますのは、
「詩の国 詩人の国」というエッセイ集から、
引用。それは題名となった箇所でした。
「 詩の国 詩人の国 --- 大岡信『折々のうた』 」
その文のはじまりは
「 葉桜の中の無数の空さわぐ 篠原梵
この句を読んでいるとーーー自分のからだが
頭の方からしだいに緑に青に染まってゆくような気がする。
葉桜の季節のよろこびが体内に湧きのぼってくるような気さえする。
大岡氏が解説しているように、
『初夏、花の去った後の葉桜が、
風に揺れて透かして見せる〈無数の空〉』なのである。
・・・・・・・
『無数の空』とも、それが『さわぐ』とも、
実にみごとに言い切ったものである。
このように言われてみると、葉桜とはまさに
そういうものであることに、あらためて気がつく。
誰でも一度はそのような葉桜の下に立って、
葉ごしにさわぐ青い晩春の空を仰いだことが
あったことを思いだす。あるいは、そのような
経験があったような気がしてくる。大岡氏は
『ありふれた光景を、よく吟味された言葉を
通過させることで新鮮にとらえ直すのも、
詩歌の一つの働き、役目だろう』とも書いている。
この句についてはとくにそう言えるだろう。
いい俳句とは、いわば『コロンブスの卵』なのだ。
言われてみると、一つの光景が動かしようもなくぴたりと
きまって、そこに物の本質があらわになっている。
大岡氏がこの句を『朝日新聞』のコラムに紹介して、
はじめて私はこの句を知り、篠原梵という俳人を知った。
芭蕉以来今日まで、何十万の俳句が作られてきたものか
見当もつかないが、そのなかから一粒のダイヤモンドを
ひょいとつまみあげて示してくれたという感じであった。
・・・・・」(p156~157)
はい。ここだけ読めば私は満腹。
本を閉じて、本棚へ。
まだ、桜の花が見られるのですが、
葉桜の方へと私の気持ちは移ります(笑)。