昨年。台風の雨漏りで、濡れちゃった本
竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社・1965年)を、
あらためて古本注文。岐阜県の古本倶楽部でした。
本代1円+送料350円=351円。それが昨日届く。
この本の副題は「東山遍歴」となっておりました。
さっそく、気になっていた
「六波羅蜜寺」のページをひらく。
うん。ここは、はじまりから引用。
「六波羅とよばれるのは六波羅蜜寺のあたり一帯の地だが、
かつてはここに平家一族の邸宅すなわち六波羅第があり、
広大な地域を占めていた。
東山から鴨川まで、北は松原通りから南は今の博物館あたり
までにおよんでいた。清盛の治世には、音羽川の水をひいて
池苑をつくり、一族郎党の家が5200余もあった。
平家が西海落ちするときに、忠盛・清盛・重盛の墓から遺骸を掘りだして、
域内の仏寺において、すべての館に火をかけた。その後
頼朝がここに館をつくって、上洛するときに泊まったが、
これも火災にかかった。承久乱の後にここに幕府の探題がおかれ、
京都以西の治安維持にあたっていたが、140年後に後醍醐天皇の
軍の赤松則村に攻められ、探題はみずから館を焼いて滅んだ。
まことに変転をきわめてた治乱興亡のあとだが、
もともとこのあたり一帯は墓地であり、それが右(注:上)の
ように政事軍事の中心となり、墓地はしだいに現在の
東山山麓にうつって、そこが鳥辺野と呼ばれるようになった。
・・・
いま、このあたりはごたごたした乱雑な町並みで、その中に
色彩剥落した六波羅蜜寺が電信柱や立看板や塵箱にかこまれている。」
(p115~116)
このあとに疫病に関する記述がでてきております。
「戦乱や火災や疫病などが不断につづいたころに、
品格の高いものが作られた。かつてはどこの国でもそうだったが、
まだ実用と精神的表現とのあいだに区別がなく、現代のように
芸術や詩が特殊な人にゆだねられた専門領域ではなかった。
ことに宗教はすべての人のものだった。
天暦5年(951)に悪疫が流行して、
市中は死屍累々たるありさまだった。
空也上人はここに草堂をいとなんでいたが、
これを救おうとして、十一面観音を刻み、
金泥大般若経600巻を写し、この祈願によって疫病もやんだ。
お寺の説明には『青竹を八葉の蓮片のごとく割り、茶を立て、
中に小梅干と結昆布を入れ、仏前に棒じた茶を病者に授け、
歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて、ついに病魔を鎮められた』とある。
そして、この観音を本尊にして西光寺を建立した。
その弟子の代に、寺号を六波羅蜜寺と改めた。
この寺の境域内に前記のように、
平家の六波羅第や鎌倉幕府の探題がつくられ、
たびたび兵乱にまきこまれ、本堂だけが
保元、平治、応仁の乱にも残ったが、破損もはなはだしかったのであろう。
尊氏の息義詮が、貞治2年(1363)に再建し、後には、
信長も秀吉も修理した。もとは天台宗だったが、
いまは真言宗である。」(p116)
このあとには、鬘掛地蔵・平清盛像・空也上人像・菩薩地蔵座像
が写真入りで竹山道雄氏の解説がなされておりました。
ちなみに、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店・2013年)
の竹山道雄年譜をひらくと、1963(昭和38)年60歳のときに
「『藝術新潮』3月号から『京都の一級品』の連載を21回に
わたって行ない毎月1回の東山遍歴を楽しんだ。」とあります。
1983(昭和58)年80歳のときには、
「秋、夫人保子、娘依子と婿平川(祐弘)と一緒に京都へ
二泊三日の旅をした。・・」とある。
その翌年の1984年6月15日に亡くなっておられます。
あらためて、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」から
京都旅行の、場面をひらく。
「1983年『竹山道雄著作集』が完結した年の秋、
竹山夫婦と私たち夫婦と四人で京都へ行った。
竹山としては見納めのつもりであったろう。
東寺からはじめて三十三間堂、養源院、清水寺、鳥辺野、
六波羅蜜寺などを丁寧に見てまわった。
あれから30年近く経ったいま妻に
『あの時どこがいちばん印象に残った?』とたずねたら
『六波羅蜜寺』と依子は答えた。私もそうだと思ったが、
よくきいてみると、依子は鬘掛(かずらかけ)地蔵から、
私は空也上人像から感銘を受けたのだった。
人間は同じ六波羅蜜寺へ行き、同じ彫像を眺め、
同じ人の説明を聞いても、自己の主観にしたがって、
このように別箇の印象を記憶に留める。・・・・」(p417)
うん。今度京都へ行くことがあったなら、
行きたいところは決まりました。